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2020/03/17

春のお彼岸入り

3月17日
火曜日

春のお彼岸入り

今日から
春のお彼岸ですね❗

午後からは
ずいぶん暖かくなって来るようなので
暑さ寒さも彼岸までは
今年の春のお彼岸に関しては
よく当てはまっているようですわ😄

新型コロナウイルスも
早く終息して
本当の春になって貰いたいですね❗

春のお彼岸入り

2020/03/16

福沢諭吉の脱亜論

3月16日
月曜日

福沢諭吉の脱亜論

1885年(明治18年)3月16日

『時事新報』の社説として
福沢諭吉の脱亜論が掲載される。

『脱亜論』(だつあろん)は、
福澤諭吉が執筆したと考えられている評論。

初出掲載された
1885年(明治18年)3月16日の新聞
『時事新報』紙上では無署名の社説である。

1933年(昭和8年)に
石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に
収録されたため、それ以来、
福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。

歴史学者の平山洋によれば、
1950年(昭和25年)以前に
「脱亜論」に言及した文献は発見されておらず、
発見されている最初の文献は
翌1951年(昭和26年)11月に
歴史家の遠山茂樹が発表した
「日清戦争と福沢諭吉」
(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。

「脱亜論」が一般に有名になったのは
さらに遅れて1960年代後半である。

第1段落  

まず、
執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を
「文明は猶麻疹の流行の如し」と表現する。

それに対し、
これを防ぐのではなく
「其蔓延を助け、國民をして早く其気風に浴せしむる」
ことこそが重要であると唱える。

その点において日本は文明化を受け入れ、
「獨り日本の舊套を脱したるのみならず、
亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し」、
アジア的価値観から抜け出した、
つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。

第2段落

「不幸なるは近隣に國あり」として、
支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ、
両者が近代化を拒否して
儒教など旧態依然とした体制にのみ
汲々とする点を指摘し
「今の文明東漸の風潮に際し、
迚も其獨立を維持するの道ある可らず」と論じる。

そして、
甲申政変を念頭に置きつつ両國に志士が出て
明治維新のように政治體制を變革できればよいが、
そうでなければ両国は
「今より數年を出でずして亡國と為り」、
西洋列強諸国に分割されてしまうだろう、と推測する。

その上で、
このままでは西洋人は
清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、
間接的ではあるが外交に
支障が少なからず出ている事は
「我日本國の一大不幸」であると危惧する。

そして、
社説の結論部分において、
東アジアの悪友である清国と朝鮮国とは、
隣国という理由で特別な関係を持つのではなく
欧米諸国と同じような付き合いかたにして、
日本は
独自に近代化を進めて行くことが望ましいと結んでいる。

「我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」とは「心(感情)」という
個人的な感情を表した表現であって、
「国家関係として日本と朝鮮とは縁を切って国交断絶すべき」というような主張ではない。

福沢諭吉の脱亜論

2020/03/15

大岡越前

3月15日
日曜日

大岡越前

1717年3月15日
(享保2年2月3日)

徳川吉宗が
大岡忠相を江戸南町奉行に登用する。

大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、
江戸時代中期の幕臣・大名。

大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。

生家は旗本大岡忠吉家で、
父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。

忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、
明治時代を迎えた。

8代将軍・徳川吉宗が進めた
享保の改革を町奉行として支え、
江戸の市中行政に携わったほか、
評定所一座に加わり、
関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や
寺社奉行を務めた。

越前守だったことと
『大岡政談』や時代劇での名奉行として
イメージを通じて、
現代では大岡越前守として知られている。

通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。

諱は忠義、のち忠相。

大岡越前と言えば

やっぱり
加藤 剛さんやな‼️

大岡越前