2020/12/11
後三年の役が終結
12月11日
金曜日
後三年の役が終結
1087年12月11日
(寛治元年11月14日)
後三年の役(ごさんねんのえき)は、
平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした
戦役である。
前九年の役の後、
奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、
奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。
後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。
11世紀、東北地方には
出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という
強大な豪族が勢力を誇っていた。
しかし陸奥国の安倍氏は陸奥国府と対立し、
康平5年(1062年)に前九年の役で滅亡した。
この時、
戦役の最終局面で参戦して
国府側戦勝の原動力となったのが、
清原氏の清原武則である。
永保3年(1083年)に
後三年の役が始まるまでの
東北地方の政治状況ははっきりしないが、
清原氏の当主の座は
前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、
武則を経て武則の息子の武貞、
さらにその嫡子の真衡へと継承されていた。
武貞は前九年の役が終わった後、
安倍氏一門の有力豪族であった
藤原経清(敗戦後に処刑)の妻(有加一乃末陪)を
自らの妻としていた。
彼女は安倍頼時の娘であり、
経清との間に生まれた息子がいた。
この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。
さらにその後、武貞と彼女の間に、
清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。
永保3年(1083年)の秋、
源頼義の嫡男で成衡の妻の兄である
源義家が陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、
真衡は義家を三日間に渡って多賀城(国府)で歓待し、
その後に出羽に出撃した。
家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て
再び真衡の本拠地を攻撃したが、
すでに備えをしていた真衡方が奮戦した上、
国府も真衡側に加勢したため、
清衡・家衡は大敗を喫して国府に降伏した。
ところが出羽に向かっていた真衡は
行軍の途中で病のために急死してしまった。
真衡の死後、
義家は真衡の所領であった奥六郡を
3郡ずつ清衡と家衡に分与した。
この時、
清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡、
家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡が
与えられたのではないかと考える者も多いが、
確証は無い。
ところが家衡はこの裁定を不満とし、
応徳3年(1086年)に清衡の館を攻撃した。
清衡の妻子一族はすべて殺されるも
清衡自身は生き延び、
義家の助力を得て家衡に対抗した。
清衡と義家は
沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった
家衡を攻撃したが、季節は冬であり、
充分な攻城戦の用意が無かった
清衡・義家連合軍は敗れた。
武貞の弟である清原武衡は
家衡勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけ、
家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、
難攻不落といわれる
金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めた。
寛治元年(1087年)、
義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めた。
この時に
義家の発案で剛の座・臆の座(剛臆の座)が設けられ、
源義光の郎党藤原季方が活躍する。
が、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、
吉彦秀武は兵糧攻めを提案した。
包囲したまま秋から冬になり、
飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。
義家はいったんはこれを助命しようとしたが、
食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。
これに恐怖したため
柵内から降伏するものはなくなり、
これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は
金沢柵に火を付けて敗走した。
武衡は
近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを
捕らえられ斬首された。
家衡は
下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。
戦いが終わったのは
寛治元年11月14日
(1087年12月11日)であった。
2020/12/10
伯父のお通夜
12月10日
木曜日
伯父のお通夜
両親と弟と4人で
宍粟市山崎まで
母方の伯父のお通夜に行きました。
享年96歳
女兄弟で
男1人だけの長男だったので
戦地には行かなかったけど
戦争中は
海軍で戦艦に乗っていました。
伯母と二人で
美術品や工芸品を扱う
骨董品屋さんをしていました。
まだ若くて元気な時は
2の日と7の日に
神戸まで品物の買い付けに来ていました。
囲碁と蒔絵を作るが好きでした。
何を話しかけても
いつも気軽に応えてくれる
優しい伯父さんでした。
色んな事を教えてくれました。
親族では
一番好きな伯父さんでした。
70歳ぐらいで心臓の手術をし
そのあとも
心臓には
常に不安があったが
長生きされましたね。
伯父さん
ありがとうございました。
長い人生
お疲れ様でした。
ゆっくり休んで下さい。
2020/12/10
山陽自動車道全線開通
12月10日
木曜日
山陽自動車道全線開通
1997年(平成9年)12月10日
山陽自動車道の
神戸JCT - 山口JCT間が全線開通し、
中国自動車道とのダブルネットワークが完成。
昔は
先に開通して
利用者の多かった
中国自動車道に比べると
ずいぶん空いてるイメージがありましたが
最近はどうなんですかね。