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2020/12/16

電話創業の日

12月16日
水曜日

電話創業の日

1890年(明治23年)12月16日

東京市内と横浜市内の間で
日本初の電話が開通したことに由来。

現在でこそ電話は日本全国、
そして世界中どこへでも通話ができる
便利なものとなってますが、
開設当初の電話は、東京と横浜のみ。

しかも加入者数も
東京155、横浜42と、
とても少なかったといいます。

その昔、
通話をするには、電話交換局を経由し、
交換手によって回線をつなぐという
超アナログなシステムでした。

かける側は
まず交換手にと話したい相手の番号を伝え、
一旦電話を切って電話を待つ、というものでした。

電話は
創業から130年を迎えました。

電話創業の日

2020/12/15

自転車屋の生き物歳時記 マハゼ

12月15日
火曜日

自転車屋の生き物歳時記

マハゼ

先日の釣りで
マハゼが2匹釣れたが
幼魚だったので
さすがに放流してやりました。

マハゼ(真鯊、真沙魚、学名:Acanthogobius flavimanus) は、スズキ目ハゼ科に分類されるハゼの一種。

東アジアの内湾や汽水域に生息するハゼで、
日本では食用や釣りの対象魚として人気がある。

日本における地方名は、
ハゼ(日本各地)、カジカ(宮城)、
カワギス、グズ(北陸地方)、
デキハゼ(関東地方・若魚)、フユハゼ(浜名湖)、
カマゴツ(鳥取)、ゴズ(島根)、
クソハゼ(大村湾)など数多い。

全長は15cmほどだが、25cmほどに達するものもいる。

体は細長い円筒形で、
ハゼとしてはスマートな体型をしている。

吻は前方に丸く突き出ていて、
上顎がわずかに下顎より前に出る。

背中側は灰褐色で、
体側には黒い斑点が並びしま状となる。

腹側は白く、鈍い光沢がある。

背鰭と尾鰭には軟条に沿って黒い点が点線状に並ぶが、
尾鰭の下方は斑点がなく灰色がかっている。

若魚は第一背鰭の後半部に黒い斑点があるが、
成長するにつれ目立たなくなる。

南日本や中国では
ウロハゼ Glossogobius olivaceus と同所的に見られるが、ウロハゼはマハゼより太く短い体形をしていること、
下顎が前に出ること、鱗が大きいこと、
腹面が灰色を帯びることなどで区別できる。

日本では北海道から種子島まで分布し、
日本以外でも沿海地方・朝鮮半島・中国まで分布する。

さらに
カリフォルニア州やオーストラリアにも分布するが、
これは自然分布ではなく、
船舶のバラスト水などによって運搬され
定着したものと考えられる。

波の穏やかな内湾や汽水域の砂泥底に生息するが、
若魚はごく浅い海岸や川の純淡水域にも進入する。

汚染にも強く、
都市部の港湾にも多く生息して親しまれている。

砂泥底に腹をつけて生活する底生魚で、
胸鰭を羽ばたかせてサッと泳ぐ。

食性は肉食性が強く、多毛類・甲殻類
・貝類・小魚などを貪欲に捕食するが、
藻類を食べることもある。

一方、天敵はサギやマゴチなどである。

マハゼの生活史として、
産卵期は1月から5月にかけてで、
南の地方ほど早い。

オスは砂泥底にY字型の穴を掘り、
メスを呼びこんで穴の壁に産卵させる。

産卵・放精が終わった後もオスは巣に残り、
孵化するまで卵を守る。

孵化した稚魚は遊泳生活をし、
プランクトンを捕食しながら成長するが、
全長2cmほどで底生生活に移る。

夏には全長5cm-10cmほどの若い個体が
海岸のごく浅い所や淡水域にも現れる。

これらの若魚は小動物を捕食しながら急速に成長し、
冬になると次第に沿岸の深場へ移動する。

春になると再び浅場にやってきて産卵するが、
産卵後はオスメスとも死んでしまう。

寿命は1年だが、2年で成熟・産卵するものもいる。

マハゼは都市部の沿岸や河川にも多く生息している
身近な魚である。

釣りやすい上に味もよく、
食用や釣りの対象として人気が高い。

鮮魚が市場に流通することは少ないが、
マハゼを利用した料理は
各地の食文化に組み込まれている。

ほぼ年中漁獲されるが、
旬は秋から冬にかけてとされる。

美味な白身魚で、
天ぷら、唐揚げ、刺身、吸い物の椀種、
煮付け、甘露煮などいろいろな料理で食べられる。

仙台など一部の地方では、
ハゼの焼き干しは伝統的な雑煮の出汁として、
なくてはならないものである。

自転車屋の生き物歳時記  マハゼ

2020/12/15

赤壁の戦い

12月15日
火曜日

赤壁の戦い

208年12月15日
(建安13年11月20日)

孫権・劉備連合軍が曹操の船団を打ち破る。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい、簡体字:赤壁之战、
繁体字:赤壁之戰)は、
中国後漢末期の208年、
長江の赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)
において起こった
曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。

『三国志』呉書魯粛伝によると、
魯粛から孫権と同盟を結び
曹操と対抗するよう説かれた劉備は、
諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。

一方、
『三国志』蜀書諸葛亮伝によると、
諸葛亮が孫権との同盟を献策し、
劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会した。

諸葛亮は曹操の兵が疲弊していること、
荊州の人間が心服していないことを挙げ、
関羽が指揮を執る精兵の水軍・劉琦が
指揮を執る江夏軍・孫権軍が協力すれば
必ずや曹操を破ることができると説き、
孫権は大いに喜んだ。

孫権は
周瑜・程普らが指揮する水陸二万の兵を派遣し、
劉備、周瑜らは併力して疫病に悩まされていた曹操軍を、赤壁・烏林で撃破して敗走させた。

『三国志』魏書武帝紀には、

「公(曹操)は赤壁に到着し、
劉備と戦うが、不利だった。
疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、
撤退した」と書かれている。

『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した。
劉備は曹操を追撃して、火を放ったが、
曹操に逃げられた」と書かれている。

『三国志』呉書周瑜伝には、
「赤壁において遭遇した曹操軍を劉備軍と共に逆撃した。この際、曹操軍には疫病が流行っていたため、
一戦を交えると敗走し、長江北岸へ引き上げた」
とある。

さらに黄蓋の建策による火計と偽降を仕掛け、
「曹操軍が油断した隙をついて
油をかけ薪を満載した火船を差し向け、
強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり大打撃を受け、岸辺の陣まで炎は及んだ。

曹操は後退し烏林に陣を張り、
周瑜らも長江を挟んで対峙した」とある。

『三国志』呉書周瑜伝の注に引く『江表伝』には、
「時に東南の風が激しく吹き荒れ
曹操軍の船を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼させた後に周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、
曹操軍は潰走した」と書かれている。

『三国志』蜀書先主伝には、
「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、
赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」
と書かれている。

『三国志』呉書呉主伝には、
「周瑜・程普を左右の督とし、各一万の兵を領させ、
劉備と共に進軍し赤壁で曹操軍を大いに破った」とある。

『後漢書』献帝紀には、
「曹操は水軍で孫権を討伐したが、
烏林・赤壁で孫権の部将周瑜に敗れた」とある。

『後漢紀』には、
「曹操は赤壁で周瑜と交戦し、周瑜に大敗した」とある。

『太平御覧』が引用する『英雄記』には、
「曹操は赤壁から長江南岸へ渡ろうとしたが、
船がなかったため筏を作って漢水沿いに
川をくだって浦口に至った。

曹操がすぐには渡ろうとしなかったため、
周瑜は夜中に火を放たせ、筏に火燃えうつると、
すぐに船を返して逃げかえった。

数千艘の筏を燃やされた曹操は
そのため夜中に逃走することになった」と書かれている。

曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。

疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が死亡した。

『三国志』呉書呉主伝には、
曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなった
と書かれている。

周瑜・劉備らは水陸並行して更に追撃して、
南郡まで兵を進めた。

曹操は慣れない江南の地で
疫病の流行に悩まされたこともあり、
江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、
自らは北方に撤退した。

赤壁の戦いの前後に孫権は合肥を攻撃したが、
曹操は張喜に千人の兵と汝南で集めた兵を率いさせて
合肥の救援に向かわせた。

そして曹操配下の蔣済が流した、
「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という
偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。

いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、
孫盛は「赤壁の戦いで劉備が曹操を破った後、
孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。

赤壁の戦い