ブログ

2020/04/04

遠山景元北町奉行

4月4日
土曜日

遠山景元北町奉行

1840年4月4日
(天保11年3月2日)

水野忠邦の抜擢により
勘定奉行・遠山景元が北町奉行に着任。

遠山 景元(とおやま かげもと)
1793年9月27日〈寛政5年8月23日〉
- 1855年4月15日〈安政2年2月29日〉)

江戸時代の旗本。

幼名は通之進、
通称は実父と同じ金四郎(きんしろう)。

官位は従五位下左衛門少尉。

職制は、江戸北町奉行、
大目付、後に江戸南町奉行。

景元の死後、
講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、
陣出達朗の時代小説
「遠山の金さんシリーズ」などで普及した。

現在では、
テレビドラマの影響を受けて
名奉行として世に認知され、
時代が100年ほど違う
大岡忠相と人気を二分することもある。

しかし
ドラマのような名裁きをした記録はほとんどない。

そもそも
三権分立が確立していない時代、
町奉行の仕事は
江戸市内の行政・司法全般を網羅している。

言わば
東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を
兼務したような存在であり、
現在でいうところの裁判官役を行うのは、
町奉行の役割の一部でしかない。

ただし、
当時から裁判上手だったという評判はあり、
名裁判官のイメージの元になったエピソードも存在する。

天保12年8月18日の「公事上聴」
(歴代の徳川将軍が一代に一度は行った、
三奉行の実際の裁判上覧)において、
景元は将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、
奉行の模範とまで讃えられた。

景元が、
たびたび水野や鳥居と対立しながらも、
矢部のように罷免されなかったのは、
この将軍からの「お墨付き」のおかげだと考えられる。

景元のこうした
「能吏中の能吏」としての名声は、
時代が江戸から明治に移っても
旧幕臣をはじめとした人々の記憶に残り、
景元を主人公とした講談を生み、
映画やテレビの時代劇へ継承される
大きな要因となったと言えよう。

遠山左衛門尉様~❗

ご出座~❗

遠山景元北町奉行

2020/04/04

週末立ち飲み終わり 居酒屋駅前

4月3日
金曜日

週末立ち飲み終わり

立ち飲みでよく会う
M重工に勤めている
高校の後輩がいるんですが

先輩❗
今日は先輩と話したいので
もう一軒付き合って下さい❗
奢りますよ‼️

高校の後輩に甘えて
居酒屋駅前で奢って貰いました😅

おおきにです‼️

週末立ち飲み終わり  居酒屋駅前

2020/04/03

週末立ち飲み キュウリと大根の浅漬け

4月3日
金曜日

週末立ち飲み

スーパードライ小瓶
黒糖焼酎れんとお湯割4杯

キュウリと大根の浅漬け
湯豆腐
ピリ辛ウインナー

週末立ち飲み  キュウリと大根の浅漬け