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2021/01/10

中華料理 平和軒

1月10日
日曜日

中華料理 平和軒

近所にある
昔ながらの下町中華です。

チャーシューワンタン麺
半チャーハン
スーパードライ‼️

麺類最高峰の
チャーシューワンタン麺で
650円です😄

中華料理  平和軒

2021/01/10

十日戎(とおかえびす)

1月10日
日曜日

十日戎(とおかえびす)

大阪の今宮戎神社、
兵庫県の西宮神社などのえびす神社で
正月の10日に行われるお祭りで、
地元の人には
「えべっさん」と呼ばれ親しまれている。

前日1月9日を「宵戎」、
翌日1月11日を「残り福」と言う。

縁起物を沢山つけた笹が
「商売繁盛、笹持ってこい!」という
賑やかな掛け声とともに売られ、
商売繁盛を願ってお賽銭に1万円札が乱れ飛ぶ。

ウチの近所は
兵庫駅の近くに
柳原蛭子がありますが

今年はどことも
コロナの影響で出店が出ない
実に寂しい
えべっさんとなっているようですね。

十日戎(とおかえびす)

2021/01/09

大友皇子が天皇に即位(即位説)

1月9日
土曜日

大友皇子が天皇に即位
(大友皇子即位説)

672年1月9日
(天智天皇10年12月5日)

大友皇子(弘文天皇)が天皇に即位。
(大友皇子即位説)

大友皇子即位説(おおとものみこそくいせつ)は、
江戸時代から唱えられた学説で、
日本史学で長く続く論争点である。

671年、
天智天皇の死後に朝廷を主宰した大友皇子は、
翌672年の壬申の乱で、
大海人皇子(後の天武天皇)に敗死した。

この間に
大友皇子が即位式を行って天皇になったのか、
それとも行わないうちに死去したのかが争点である。

大友皇子が
実際に天皇としての行為を行っていたことへの
異議は少ない。

大友皇子は
明治に入った明治3年(1870年)に
諡号を贈られて弘文天皇と呼ばれたため、
弘文天皇即位説(こうぶんてんのうそくいせつ)
とも呼ばれる。

過去から現在まで、
壬申の乱の基本史料は『日本書紀』であり、
これには大友皇子が皇太子になったとも、
即位したとも記していない。

やや時代がくだる『懐風藻』は、
大友皇子を「皇太子」と記すが、
天皇とはしていない。

平安時代の複数の史書には、
大友皇子の即位を記しているものがある。

『日本書紀』は官撰史書であり、
天武天皇の子舎人親王が編纂を統括した
天武寄りの史書である。

そこで、『書紀』の編纂者は
即位の事実を知りながらも
あえて記さなかったとするのが、
大友皇子即位説である。 

一方、『日本書紀』の記述を認めて、
即位はなかったが大友皇子が朝廷を率いたとするのが、
大友皇子非即位説である。

天皇にはならないが
天皇代理として統治することを称制と云い、
非即位説は大友皇子称制説と言い換えることもできる。

この他に、
天智天皇の死後は皇后倭姫王が即位したとする
倭姫王即位説、
即位しなかったが政務をとったとする
倭姫王称制説もある。

江戸時代から明治時代初めにかけては、
大友皇子即位説が有力であった。

そこで1870年(明治3年)に、
明治政府は大友皇子に「弘文天皇」と追諡した。

しかし
明治時代の終わり頃から
即位説の根拠に疑問が提出され、
現在では即位はなかったとみる見方が有力である。

大友皇子が天皇に即位(即位説)