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2020/05/08

自転車屋の生き物歳時記 ツバメ

5月8日
金曜日

自転車屋の生き物歳時記

ツバメ

季節は人間界に何があろうと
粛々と進んでいる。

今年もツバメがやって来た。
先週ぐらいから
巣作りを始めている。

ツバメ(燕、玄鳥、乙鳥Hirundo rustica)は、
スズメ目ツバメ科ツバメ属に分類される鳥類。

古くはツバクラメあるいはツバクロと呼ばれた。

北半球の広い範囲で繁殖する。

日本では沖縄県でも繁殖する。

日本で繁殖するツバメの主な越冬地は
台湾、フィリピン、ボルネオ島北部、
マレー半島、ジャワ島などである。

全長は約17 cm、翼開長は約32cm。

背は光沢のある藍黒色で、喉と額が赤い。

腹は白く、胸に黒い横帯がある。

尾は長く切れ込みの深い二股形で、
この尾の形をツバメにちなんで燕尾形という。

翼が大きく、飛行に適した細長い体型である。

脚は短く歩行には不向きで、
巣材の泥を求めるとき以外は
地面に降りることはめったにない。

鳴管が発達しており、
繁殖期になるとオスは
チュビチュビチュビチュルルルルルと
比較的大きなさえずり声で鳴く。

日本語ではその生態を反映して
「土食て虫食て口渋い」などと聞きなしされる。

さえずりは日中よりも
早朝から午前中にかけて耳にする機会が多い。

飛翔する昆虫などを空中で捕食する。

また、水面上を飛行しながら水を飲む。

一部、日本国内で越冬する個体があり、
しばしば「越冬ツバメ」と呼ばれる。

特に中日本から西日本各地で越冬し、
そのような場合、多くは集団で民家内や軒下などで
就塒(しゅうじ)する。

日本で越冬している個体が
日本で繁殖したものであるのか、
それともシベリアなど日本より北方で
夏に繁殖したものであるのかはよく分かっていない。

泥と枯草を唾液で固めて巣を造る。

ほとんど人工物に造巣し、
民家の軒先など人が住む環境と同じ場所で
繁殖する傾向が顕著である。

これは、
天敵であるカラスなどが
近寄りにくいからだと考えられている。

民家に巣を作る鳥は
他にスズメなどがいるが、
あえて人間が多い場所に見えるように作る点で
他の鳥と大きな差異が見られる。

巣は通常は新しく作るが、
古い巣を修復して使用することもある。

産卵期は4 - 7月ごろ。

一腹卵数は3 - 7個で、主にメスが抱卵する。

抱卵日数は13 - 17日、
巣内での育雛日数は20 - 24日で、
1回目の繁殖の巣立ち率はおおむね50%程度と推定される。

1回目繁殖に成功したつがい
あるいは失敗したつがいのうち、
詳細は不明であるが、
相当数のつがいがその後2回目
あるいはやり直しの繁殖をする。

雛(ヒナ)を育てている間に
親鳥のうちどちらか一方が何らかの理由で欠けると、
つがい外のツバメがやってきて
育てているヒナを巣から落として
殺す行動が観察されている。

一方、
つがいのうちメスが欠けた場合は
どこからともなく複数の他のツバメが集まり、
その中から選ばれたように
一羽ツバメが新たなつがい相手となって
子育てを継続する様子も観察されている。

落ちているツバメのヒナを拾って
人間が育てることはとても困難であるし、
野鳥なので日本での飼育は
鳥獣保護法によって禁じられているが、
保護のために許可を得て飼育することは可能である。

自転車屋の生き物歳時記  ツバメ

2020/05/08

武漢コロナは普通の風邪だった

5月8日
金曜日

武漢コロナは
我が国においては
普通の風邪だった

武田邦彦先生ネタです

武漢コロナは
我が国においては
普通の風邪だった❗

2月に
指定伝染病になった事から
得体の知れない病気であると
恐れられて来たが

これまでの
治療の結果などから
分かった事は

発症者が1万人に1人

重症者が40万人に1人

実は
9割ぐらいの人は
2~3日で完治している❗

初期症状は

身体がだるくなる
少し咳が出る
熱が出るなど

この状態になった場合は

免疫細胞
白血球
リンパなどが
全力でウイルスと戦うので
ウイルスと戦う邪魔をしてはいけない❗

高熱を出して戦っているので
熱を下げてはいけない❗

消化にエネルギーを
無駄に使わせない為に
食事を減らす❗

血液を送るエネルギーを
無駄に使わせない為に
横になる❗

健康な人は発症しても
これだけやっていれば
2~3日で治る‼️

これをやらずに
無理をした人が重症になっている❗

武漢コロナは普通の風邪だった

2020/05/07

文禄の役

5月7日
木曜日

文禄の役

1592年5月7日
(文禄元年3月26日)

豊臣秀吉が
朝鮮出兵の指揮をとるため京都から肥前へ出発。

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、
天正20年/万暦20年
/宣祖25年(1592年)に始まって
翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、
慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって
再開されて慶長3年/万暦26年
/宣祖31年(1598年)の
太閤豊臣秀吉の死をもって
日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、
合わせた戦役の総称である。

全兵船の3分の1以上を動員して、
対馬を侵略した李氏朝鮮による応永の外寇以来の
朝鮮半島国家との戦争であった。

日本の天下統一を果たした
天下人・秀吉は大明帝国の征服を目指し、
配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。

秀吉は(明の)冊封国である
李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、
この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。

小西行長や加藤清正らの侵攻で
混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、
明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。

明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう
日本軍を阻むために出兵を決断した。

以後、戦線は膠着した。

休戦と交渉を挟んで、
朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、
16世紀における世界最大規模の戦争であった。

双方に決定的な戦果のないまま、
厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して
未決着のまま終息したため、
対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、
江戸時代に柳川一件として暴露された。

戦役の影響は、
明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。

朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、
無関係の囚人を日本兵と称して
明に献上せざるを得なかった。

豊臣家にも
武断派と文治派に分かれた
家臣団の内紛をもたらしたので、
三者三様に被害を蒙ったが、
西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして
損害を弁済した大名もあった。

文禄の役