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2021/01/22

大化の改新・改新の詔

1月22日
金曜日

大化の改新
改新の詔(かいしんのみことのり)

646年1月22日
(大化2年1月1日)

大化の改新: 改新の詔が発布される。

改新の詔(かいしんのみことのり)は、
日本の飛鳥時代中期の大化の改新において、
新たな施政方針を示すために発せられた詔。

難波長柄豊碕宮で発せられたとされる。

この詔は『日本書紀』に掲載されている。

従来はこれにより、
公地公民制、租庸調の税制、班田収授法などが
確立したと考えられていた。

しかし、
藤原京から出土した木簡により
『日本書紀』に見える詔の内容は
編者によって潤色されたものであることが
明白になっている。

大化元年(645年)の乙巳の変により
蘇我本宗家を排除し、
新たに即位した孝徳天皇は、
翌大化2年(646年)正月1日に
政治の方針を示した。

豪族連合の国家の仕組みを改め、
土地・人民の私有を廃止し、
天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。

大きく4か条の主文からなり、
各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。

『日本書紀』編纂に際し
書き替えられたことが明白となり、
大化の改新の諸政策は
後世の潤色であることが判明している。

だが、
孝徳期から天武・持統期にかけて
大規模な改革が行われたことに違いはなく、
後の律令制へつながっていく
王土王民を基本理念とした内容だったと考えられる。

大化の改新・改新の詔

2021/01/21

鑑真が上陸

1月21日
木曜日

鑑真が上陸

754年1月21日
(天平勝宝5年12月20日)

鑑真が仏舎利を携え秋妻屋浦
(現在の鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に上陸。

鑑真(がんじん)
(旧字体: 鑑眞、繁体字: 鑑真
; 簡体字: 鉴真; 拼音: Jiàn zhēn、)

688年〈持統天皇2年〉
~763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉)は、

奈良時代の帰化僧。

日本における律宗の開祖。

俗姓は淳于。

天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)

大宰府に到着、
鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で
初の授戒を行い、
天平勝宝6年2月4日に
平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、
孝謙天皇の勅により
戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、
東大寺に住することとなった。

4月、
鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、
上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。

これが日本の登壇授戒の嚆矢である。

併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、
その後、
天平宝字5年には日本の東西で
登壇授戒が可能となるよう、
大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、
戒律制度が急速に整備されていった。

天平宝字2年(758年)、
淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、
政治にとらわれる労苦から解放するため
僧綱の任が解かれ、
自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

天平宝字3年(759年)、
新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、
戒壇を設置した。

鑑真は戒律の他、
彫刻や薬草の造詣も深く、
日本にこれらの知識も伝えた。

また、
悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

天平宝字7年(763年)

唐招提寺で死去(遷化)した。

享年76歳。

死去を惜しんだ弟子の忍基は
鑑真の彫像
(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて
骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、
現代まで唐招提寺に伝わっている
(国宝唐招提寺鑑真像)。

これが日本最古の肖像彫刻とされている。

また、
宝亀10年(779年)、
淡海三船により
鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、
鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。

鑑真が上陸

2021/01/20

評定衆(ひょうじょうしゅう)

1月20日
水曜日

評定衆(ひょうじょうしゅう)

1226年1月20日
(嘉禄元年12月21日)

鎌倉幕府が評定衆を設置する。

評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、
鎌倉・室町時代に置かれた役職の一つである。

鎌倉時代においては
幕府の最高政務機関であり、
行政・司法・立法のすべてを司っていた。

鎌倉殿である
源頼家の独裁権を掣肘するため
1199年に開始された十三人の合議制が原型であるが、評定衆として制度化されたのは1225年

鎌倉幕府の執権北条泰時が、
摂家から迎えた
若年の鎌倉殿の藤原頼経が名目上支配する幕府政治を、
有力御家人による合議により運営するべく
設置したのが最初である。

この年は
北条政子・大江広元が亡くなり、
鎌倉幕府創設時から幕府を支えてきた人々が
いなくなってしまったことも、
新たな評定組織の必要性が発生したと考えられている。

なお、評定衆の長が執権であり、
その地位は北条氏が独占していた。

また、
将軍は評定会議には出席せず、
決定事項を閲覧するのみであった。

成立時点での席次筆頭は、
幕府の元勲である中原親能・大江広元の親族で、
将軍頼経の侍読だった中原師員が務めた。

のち席次上位も北条氏が独占するようになるが、
師員は非北条氏としては最高の席次を保った。

将軍の
独裁政治を防ぐ為に
現在の内閣みたいな物が
鎌倉時代にはあったと言う事ですな❗

評定衆(ひょうじょうしゅう)