2021/01/29
人口調査記念日
1月29日
金曜日
人口調査記念日
1872年(明治5年)1月29日
日本初の全国戸籍調査が実施されたことにちなむ。
明治維新後最初の人口調査が行われ、
戸籍が編纂されました。
結果は男性 17,666千人, 女性 17,140千人、
合計 34,806千人でした。
現在の約4分の1です。
人口の調査はもちろん以前から行われています。
最も古い記録は崇神天皇の時代(AD350頃)になります。
残念ながらこの時は実際に何人だったのかの
記録はありません。
人口調査は一般に税金を課すために行われます。
奈良・平安時代頃は、
女性の方が税金が安いということで、
異様に女性の比率の高い集計結果が
出ていたケースも多いようです。
全国的な調査というのは
その後室町時代の戦乱の中で中断していましたが、
江戸時代になると
「人別帳」編纂のため再開されます。
享保6年(1721)の記録では
日本の人口は 26,065 千人という数字が出ています。
江戸時代の後半150年で
日本の人口は 1200万人増えたことになります。
近年の人口調査は
「国勢調査」という形で行われています。
これは大正9年(1920)から始まりました。
この調査はその後5年ごとに行われており、
浮浪者などは公園で調査官が集合を掛けて
調査するなどの徹底ぶりです。
現在の国勢調査では
既婚・未婚の別まで聞いていますが、
毎回女性の既婚者の方が
男性の既婚者より多く出るという不思議が起こり、
国勢調査の謎の一つとなっており、
次のような説があります。
夫が遠隔地に出張している場合、
夫と妻は別々に調査されているのだがこの時、
夫が妻の分まで書いてしまっているのではないか
(しかしこれはむしろ逆のケースの方がありそう)
一人の男性が複数の女性と事
実上結婚状態にある場合が含まれているためではないか
夫と死別した女性が
既婚者欄にチェックしてしまっているためではないか
国勢調査では
既婚未婚の別にしても性別にしても
全て自己申告が原則ですので
戸籍を集計したものとは結果は大きく変わります
(ただし戸籍には死んだまま何年も放置されているものも含まれている)。
2021/01/28
長尾景虎(上杉謙信)
1月28日
木曜日
長尾景虎
(上杉謙信)
1549年1月28日
(天文17年12月30日)
長尾景虎(上杉謙信)が
家督を継ぎ春日山城へ入城する。
上杉 謙信(うえすぎ けんしん)
/ 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、
戦国時代に
越後国(現在の新潟県)などを支配した大名。
関東管領(1561年 - 1578年)。
山内上杉家16代当主。
越後を統一したほか、
関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に
度々出兵した。
戦国時代でも屈指の戦上手とされ、
その神懸った戦績から後世、
軍神や、「越後の龍」などと称された。
越後守護・上杉家に仕える
越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の
四男として生まれ、初名は長尾 景虎。
関東管領上杉憲政の養子となり
山内上杉氏の家督を譲られ
(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)
上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、
上杉氏が世襲していた
室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。
後に
室町幕府の将軍・足利義輝より
偏諱(「輝」の1字)を受けて、
最終的には輝虎と名乗った。
謙信は、さらに後に称した法号である。
内乱続きであった越後国を統一し、
戦や政だけではなく、
産業を振興して国を繁栄させた。
戦った戦国大名・武将は数多く、
武田信玄、北条氏康、織田信長、
越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、
佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと
合戦を繰り広げた。
特に
宿敵武田信玄との5回にわたる
川中島の戦いはよく知られている。
さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、
越後国から北陸路を西進して
越中国、能登国、加賀国へ勢力を拡大したが、
48歳で死去した。
兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。
謙信には実子がおらず、
謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって
御館の乱が勃発した。
謙信は、
他国から救援を要請される形での遠征が多く、
江戸時代から現代に至るまで
私利私欲に拘泥しない「義の武将」という印象が強い。
一方で、
現代では史料の発掘・分析などが進み、
利害を冷徹に判断しながら、
領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も多い。