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2020/05/22

鎌倉幕府滅亡

5月22日
金曜日

鎌倉幕府滅亡

1333年(正慶2年)5月22日

東勝寺合戦で敗れた
鎌倉幕府の得宗
北条高時ら北条一族が自決。

鎌倉幕府が滅亡。

東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、
鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に
相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。

1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された
後醍醐天皇の倒幕運動である
元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。

東勝寺は、
第3代執権の北条泰時が
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として
葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した
北条氏の菩提寺である。

新田義貞は切通しの突破を諦めて、
干潮を利用しての稲村ヶ崎から
海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる
(室町時代に成立した軍記物語
『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ヶ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる)。

背後を突かれた形となった幕府軍は
鎌倉市街や切通しなどで
大仏貞直、大仏宣政、金沢貞将、本間山城左衛門、
そして他に
第13代執権の普恩寺基時(北条基時)などが戦死した。

北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。

『太平記』によれば
寺に篭った北条一族と家臣は、
長崎高重、摂津道準、諏訪直性ら北条被官から順に
それぞれ切腹、最後に高時、
舅の安達時顕と自害したという
(内管領の長崎高資、その父長崎円喜、
第15代執権の金沢貞顕(北条貞顕)など)。

『太平記』には、
自害した人々は283人の北条一族と家臣、
後に続いた兵を合わせて
総数870人余人とあるが、
文学的誇張もあると推察される。

高時らの自害を知った
安東聖秀らもまた、
降伏勧告を拒絶して市中で自害した。

鎌倉幕府滅亡

2020/05/21

自転車屋における面白い現象

5月21日
木曜日

自転車屋における面白い現象

コロナ不況により
基本的には
自転車屋も暇なんですが
面白い現象が起こっています。

これは
お父さんが補助車(コマ)を外して
スタンドを付けようとして
ブレーキやら要らん所を触って
手に負えなくて
持ち込まれた幼児車ですが

ネット販売でも
通常ならほとんど売れない
幼児車用の
サドルや補助車やスタンドや
幼児車用のパーツは売れています。

コロナ自粛で
お父さんがテレワークなどで
家にいるから
お母さんなら気にならないような
子供の自転車が
お父さんは気になるので
幼児車関連の需要が
高まっているんでしょうね😅

自転車屋における面白い現象

2020/05/21

古今和歌集

5月21日
木曜日

古今和歌集

905年5月21日
(延喜5年4月15日)

紀貫之らが『古今和歌集』を撰進。

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)は、
平安時代前期の勅撰和歌集。

全二十巻。

勅撰和歌集として最初に編纂された。

略称を『古今集』(こきんしゅう)という。

『古今和歌集』は
仮名で書かれた仮名序と真名序の二つの序文を持つが、
仮名序によれば、
醍醐天皇の勅命により
『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から
撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、
延喜5年(905年)4月18日に奏上された。

ただし現存する『古今和歌集』には、
延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、
奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、
実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。

撰者は
紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人である。

序文では友則が筆頭にあげられているが、
仮名序の署名が貫之であること、
また巻第十六に
「紀友則が身まかりにける時によめる」
という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、
友則は途上で没したと考えられている。

古今和歌集