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2020/05/29

備中高松城の戦い

5月29日
金曜日

備中高松城の戦い

1582年5月29日
(天正10年5月8日)

豊臣秀吉が、
水攻めのため
備中高松城を包囲する堤防の建設を開始。

12日間で完成。

備中高松城の戦い
(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、
日本の戦国時代におきた戦い。

天正10年(1582年)に
織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が
毛利氏配下の清水宗治の守備する
備中高松城を攻略した戦いである。

秀吉は
高松城を水攻めによって包囲したことから、
高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。

清水 宗治(しみず むねはる)は、
戦国時代の武将。

備中高松城主。

三村氏、毛利氏に仕えた。

三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となった。

天正10年(1582年)4月

統一政策を進める織田信長の
家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、
宗治は高松城に籠城して抗戦する(備中高松城の戦い)。

秀吉は
降伏すれば備中・備後2カ国を与えるという
条件を出したが、宗治は応じず、
信長からの誓詞をそのまま
主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示した。

そのため、
黒田孝高が策した水攻めにあって
城は落城寸前に追い込まれたが、
輝元自らが
吉川元春・小早川隆景とともに救援に赴いたため、
戦線は膠着状態となった。

この水攻めの最中の
6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、
その報を知った秀吉は信長の死を伏せて、
宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。

結局、
宗治は信長の死を知らぬまま、
その2日後の6月4日に
兄の清水宗知(月清入道)、弟の難波宗忠(伝兵衛)、
援将の末近信賀らとともに水上の舟において切腹した。

享年46。

辞世は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」。

墓所は山口県光市の清鏡寺にある。

羽柴秀吉は
清水宗治の毛利に対する
忠誠心と見事な切腹に
武士の鏡と感銘を受けて

「宗治、敵ながら天晴れである!」

備中高松城の戦い

2020/05/28

花火の日

5月28日
木曜日

花火の日

1733年(享保18年)のこの日(旧暦)

隅田川で
水神祭りの川開きが行われ、
慰霊を兼ねた花火が打ち上げられたことを記念。

隅田川の両国橋付近で水神祭りの川開きが行われ、
慰霊を兼ねた花火が打ち上げられた。

これが
「両国川開きの花火」の始まりであった。

この年は
第8代将軍・徳川吉宗(1684~1751年)の治世で、
全国的に凶作に見舞われ、
大飢饉になったうえ、
コロリ(コレラ)が大流行して多くの死者が出た。

この犠牲者の慰霊を兼ねて
打ち上げられた花火は、
やがて庶民の楽しみとして定着した。

その後、
江戸を代表する花火師の屋号である
「玉屋」と「鍵屋」が技を競うようになった。

両国橋を挟んで上流を玉屋が、
下流を鍵屋が受け持ち、
交互に花火を上げる二大花火師の競演であった。

この時、
花火師を応援する声として
「たまや~」「かぎや~」の掛け声が生まれた。

両国川開きの花火は、
明治維新や第二次世界大戦、
その後、
昭和に入ってから交通渋滞など交通事情の悪化、
隅田川の水質汚濁による臭害などにより
中断された時期もあるが、
1978年(昭和53年)に
現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活し、
以後毎年7月に開催されている。

ただし、
2020年(令和2年)は
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の
流行拡大の影響を受けて開催の中止が決定された。

江戸時代の
旧暦の5月28日だから
今の暦だと7月上旬って
ところだったんでしょうね。

花火の日

2020/05/28

日食の戦い

5月28日
木曜日

日食の戦い

紀元前585年5月28日

メディア王国が
リュディアに攻め込むが、
偶然起こった日食を不吉に感じて戦争をやめ、
戦場となったハリス川を国境に定める。

メディア王国
(Media、古代ギリシア語:Mēdía[1] / Μηδία、
古代ペルシア語:Māda、アッカド語:Mādāyaは
古代イランの王国である。

メディア地方は
現在のイラン北西部、
ハマダーン周辺を中心とする地域であり、
前1千年紀には
インド・ヨーロッパ語を話す人々が
居住するようになっていた。

この中から
メディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。

メディア人は
当時の西アジアの大国アッシリアの記録で
初めて歴史に登場し、
前612年頃のアッシリアの滅亡の後には
新バビロニア、エジプト、リュディアと共に
古代オリエント世界の大国を形成した。

主として
ヘロドトスなどギリシア人作家の記録によって
メディアの歴史が伝えられているが、
メディア人自身による歴史記録が存在せず、
考古学的調査も不十分であるため、
その実態についてわかっていることは少ない。

前550年に
ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の
クル2世(キュロス2世)によって破られ
その帝国に組み込まれたが、
メディア人の制度・文化は
後のイラン世界に大きな影響を残したと考えられており、地名としてのメディアはその後も使用され続けた。

日食の戦い(にっしょくのたたかい)
ないし
ハリュス川の戦い(はりゅすがわのたたかい)は、
紀元前6世紀前半に
メディア王国とリュディア王国の間で行われた戦い。

勝敗は決せず、
両者は停戦して平和条約を結び、
6年間にわたる戦争を終わらせた。

ヘロドトスの記述を信ずるならば、
この日食は現代の天文計算によって
紀元前585年5月28日に発生したものと特定され
(タレスの日食)、
ひいては戦いの日時も導き出される。

一部の学者は、
その時点で両国の国境付近を流れていたであろう
ハリュス川こそが
戦いの舞台となったものと想定している。

この日食は
発生の前にその日付が特定されていた
最古の例と言うことになろう。

たまには
世界史もと思いまして、

日食に恐れおののいて
戦を止めてしまったと言う変わった戦ですね❗

日食の戦い