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2020/06/02

倶利伽羅峠の戦い

6月2日
火曜日

倶利伽羅峠の戦い

1183年6月2日
(寿永2年5月11日)

治承・寿永の乱
倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い
(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、
または、砺波山の戦い
(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、
平安時代末期の
寿永2年5月11日(1183年6月2日)

越中・加賀国の国境にある
砺波山の倶利伽羅峠
(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で
源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。  

治承・寿永の乱における戦いの一つ。

寿永2年(1183年)4月

平家は
平維盛を総大将とする10万騎の大軍を
北陸道へ差し向けた。

平家軍は
越前国の火打城の戦いで勝利し、
義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。

5月9日明け方、
加賀国より軍を進め般若野
(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、
木曾義仲軍の先遣隊である
義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて
戦況不利に陥り、平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。

一旦後退した平家軍は、
能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、
加賀国と越中国の国境の砺波山に
平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の
二手に分かれて陣を敷いた。

5月11日
義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、
義仲本隊は砺波山へ向かう。

義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして
平家軍の油断を誘い、
今井兼平の兄で
義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊を
ひそかに平家軍の背後に回りこませた。

平家軍が寝静まった夜間に、
義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。

浮き足立った平家軍は退却しようとするが
退路は樋口兼光に押さえられていた。

大混乱に陥った平家軍7万余騎は
唯一敵が攻め寄せてこない方向へと
我先に逃れようとするが、
そこは倶利伽羅峠の断崖だった。

平家軍は、
将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。

平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、
平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。

この戦いに大勝した
源義仲は京へ向けて進撃を開始し、
同年7月に遂に念願の上洛を果たす。

大軍を失った平家は
もはや防戦のしようがなく、
安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

『源平盛衰記』には、
この攻撃で義仲軍が
数百頭の牛の角に松明をくくりつけて
敵中に向け放つという、
源平合戦の中でも有名な一場面がある。

しかし
この戦術が実際に使われたのかどうかについては
古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。

眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、
敵中に向かってまっすぐ突進していくとは
考えにくいからである。

そもそもこのくだりは、
中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた
「火牛の計」の故事を下敷きに
後代潤色されたものであると考えられている。

この元祖「火牛の計」は、
角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、
突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、
尾の炎が敵陣に燃え移って
大火災を起こすというものである。

倶利伽羅峠の戦い

2020/06/01

衣替えの歴史

6月1日
月曜日

衣替えの歴史

平安時代

衣替えの習慣は平安時代の宮中行事から始まった。

中国の風習に倣って
旧暦の4月1日および10月1日に
夏服と冬服を着替えると定め、
これを「更衣(こうい)」と呼んだ。

しかし、
天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、
後に天皇の寝所に奉仕する女官で
女御(にょうご)に次ぐ者を指すようになったので、
民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。

季節による取り替えは
衣服以外についても、
女房(貴婦人)が手に持つ扇も
冬は桧扇(ひおうぎ=ヒノキ製)、
夏は蝙蝠(かわほり=紙と竹製の扇)と決められていた。

鎌倉時代になると、
更衣は衣服だけでなく
調度品までとり替えることを含むようになった。

江戸時代

江戸時代になると着物の種類が増え、
江戸幕府は
公式に年4回の衣替えでの出仕を制度化した。

武家の制服は、
旧暦の4月1日 - 5月4日が
袷(あわせ=裏地付きの着物)、
5月5日 - 8月末日が
帷子(かたびら=裏地なしの単仕立ての着物)、
9月1日 - 9月8日が袷、
9月9日 - 翌年3月末日が
綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)とされ、 
一般庶民もこれに従った。

明治時代

明治政府は
洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、
夏服と冬服の衣替えの時期も制定した。

明治6年(1873年)1月1日より
新暦(太陽暦)が採用され、
太陽暦6月1日 - 9月30日が夏服、
10月1日から翌年5月31日が冬服と定められた。

やがて、これが学生服に、
次第に一般の人にも定着し、
官公庁・企業・学校が
毎年6月1日と10月1日に衣替えを行うようになった。

衣替えの歴史

2020/06/01

今川氏滅亡

6月1日
月曜日

今川氏滅亡

1569年6月1日
(永禄12年5月17日)

今川氏真が
掛川城を開城して伊豆へと落ち延びる。

戦国大名としての今川氏の滅亡。

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、
戦国大名、文化人。

今川氏12代当主。

父・今川義元が
桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、
その後、今川家の当主を継ぐが
武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、
戦国大名としての今川家は滅亡した。

その後は同盟者でもあり
妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、
最終的には桶狭間の戦いで
今川家を離反した徳川家康(松平元康)と
和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、
氏真以後の今川家の子孫は、
徳川家と関係を持ち続け、
家康の江戸幕府(徳川幕府)で
代々の将軍に仕えて存続した。

京都在住時代の氏真は、
豊臣秀吉あるいは家康から与えられた
所領からの収入によって生活をしていたと
推測されている。

のちの慶長17年(1612年)に、
家康から近江国野洲郡長島村
(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」
500石を安堵されているが、
この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない。

慶長17年4月に
氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している。

『寛政重修諸家譜』によれば、
氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、
また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。

氏真はそのまま
子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、
慶長18年(1613年)に
長年連れ添った早川殿と死別した。

慶長19年(1615年)12月28日

江戸で死去。享年77。

葬儀は氏真の弟・一月長得が
江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られた。

寛文2年(1662年)
 
萬昌院が牛込に移転するのに際し、
氏真の墓は早川殿の墓と共に、
今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村
(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある
宝珠山観泉寺に移された。

今川氏滅亡