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2020/06/10

入梅(にゅうばい)

6月10日
水曜日

入梅(にゅうばい)

入梅(にゅうばい、ついり、つゆいり)は、
梅雨入りの時期に設定された雑節である。

現在の日本では、
太陽黄経が80°の時またはその日である。

新暦(グレゴリオ暦)で6月11日ごろ。

対義語は出梅(しゅつばい、つゆあけ)だが、
日本ではほとんど使われない。

気象上の入梅

本来は「梅雨入り」の漢語表現である。

もちろん、地域と年により日付は異なる。

西関東方言では、
梅雨の季節全体を「入梅」と呼ぶ。

普通にいう
「梅雨入りする」は「入梅に入る」という。

時候の挨拶で用いる「入梅の候」は、宛先の地で梅雨入りが発表されていることが前提となる。

日本では、
貞享暦(1685) のころから暦に
入梅が載るようになった。

その定義は
「芒種後の最初の壬の日」だった。

なお、芒種は太陽黄経75°の日。

「壬(みずのえ)」は五行でいえば水の陽にあたる。

芒種が壬だった場合の扱いは、
芒種当日とするか10日後の次の壬とするかは
混乱があったが、
しだいに芒種当日とするようになった。

すなわち、
芒種当日から9日後までである。

新暦では
およそ6月4日から6月16日までを変動し、
平均すれば6月10日ごろとなる。

出梅は暦には載らなかったが、
「小暑後の最初の壬の日」とされていた。

この入梅と出梅の組み合わせは
中国の『本草綱目』と同じである。

今年は
暦の入梅が本日なのですが
たぶん
暦通りに梅雨入りしそうですね。

入梅(にゅうばい)

2020/06/09

毛利新介

6月9日
火曜日

毛利新介

大河ドラマ
麒麟が来る

決戦!桶狭間

桶狭間の戦いで
今川義元(片岡愛之助)が討たれました。

今川義元を討った男として
有名な
毛利新介(今井 翼)です。

毛利 良勝(もうり よしかつ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

織田氏の家臣。

通称は新介、後に新左衛門。

尾張国の出身というが、出自については不明。

織田信長に馬廻として仕えた。

小姓であったとする説もある。

永禄3年(1560年)

桶狭間の戦いでは
負傷した服部一忠を助け、
今川義元の首を取り名を上げた。

この際、
指を噛み千切られたといわれる。

桶狭間以後は諱を良勝と名乗り、
通称は新介から新左衛門に改めた。

母衣衆が選抜されたときに
黒母衣衆の一人に名を連ねた。

信長上洛後は、
永禄12年(1569年)に
大河内城攻めに参加したが、主に吏僚として活躍。

信長の側近として
尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)に属し、
判物や書状に署名を残した。

天正10年(1582年)

甲州攻めでも信長に随行して
4月の諏訪在陣で興福寺大乗院より贈品を受けている。

本能寺の変の際も
信長に従って京に滞在しており、
信長の嫡男・信忠を守って二条御新造に籠り、
信忠と共に奮戦の末に討死した。

毛利新介

2020/06/09

弘安の役

6月9日
火曜日

弘安の役

1281年6月9日
(弘安4年5月21日)

元寇

壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来。

弘安の役の始まり。

元寇(げんこう)とは、
日本の鎌倉時代中期に、
当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として
東アジアと北アジアを支配していた
モンゴル帝国(元朝)および
その属国である高麗によって2度にわたり行われた
対日本侵攻の呼称である。

1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、
2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)
という。

蒙古襲来とも。

浙江大学教授・王勇によれば、
弘安の役で大敗を喫した元は、
その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた。

他方、
日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が
急速に進む中で浪人武士が多く現れ、
それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に
漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、
敗戦で海防力が弱体化していた
元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に
進出していったとする。

1292年(正応5年、至元29年)、
日本の商船が
貿易を求めて四明(今の寧波)にやってきたが、
検査により船内から武具が見つかり、
日本人が武具を隠し持っていたことが発覚した。

日本人による略奪の意図を恐れた
元朝政府は都元帥府を設置して、
総司令官・カラダイ(哈剌帯)に海防を固めさせた。

1304年(嘉元2年、大徳7年)、
江南に度重なって襲来するようになった
日本武装商船に警戒し、
千戸所を定海に設けて海防を強化させ、
市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる
禁海令を発布した。

王勇は、このように、
元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、
閉関主義へと態度を変化させ
日本との通交を回避するようになったとする。

また、高麗においても、
二度に及ぶ日本侵攻(文永・弘安の役)
及び第三次日本侵攻計画による造船で
国内の木材が殆ど尽き、海軍力が弱体化したため、
その後相次ぐ倭寇の襲来に
苦戦を強いられる重要な原因となった。

浙江大学教授・王勇は
弘安の役での敗戦と
その後の日本武装商船の活動によって
中国における対日本観は大きく変化し、
凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が
形成されていったと指摘している。

例えば、
南宋遺臣の鄭思肖は
「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。
たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。

勝たなければみな死ぬまで戦う。
戦死しなければ、帰ってもまた
倭王の手によって殺される。

倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、
犯すべからず。
倭刀はきわめて鋭い。

地形は高険にして入りがたく、
戦守の計を為すべし」と述べ、
また元朝の文人・呉莱は
「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の
倭奴とは同じではない。

昔は至って弱いと雖も、
なお敢えて中国の兵を拒まんとする。
いわんや今は険を恃んで、
その強さは、まさに昔の十倍に当たる。

さきに慶元より航海して来たり、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。

その重貨を出し、公然と貿易する。

その欲望を満たされなければ、
城郭を燔して居民を略奪する。

海道の兵は、猝かに対応できない。

士気を喪い国体を弱めるのは、
これより大きなことはない。

しかし、
その地を取っても国に益することはなく、
またその人を掠しても兵を強めることはない」と述べ、
日本征服は無益としている。

弘安の役