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2020/06/15

衣川の戦い

6月15日
月曜日

衣川の戦い

1189年6月15日
(文治5年閏4月30日)

源義経追捕の宣旨により
藤原泰衡が衣川館を襲う。

源義経は自害。

衣川の戦い(ころもがわのたたかい)は、
陸奥国衣川館で
藤原泰衡が源義経主従を自害させた戦い。

奥州藤原氏三代・藤原秀衡は
関東以西を制覇した源頼朝の勢力が
奥州に及ぶことを警戒し、
義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、
文治3年(1187年)10月29日に病没した。

頼朝は秀衡の死を受けて
後を継いだ藤原泰衡に、
義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。

一方、義経は
文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、
鎌倉方と合戦をしている。

また
文治5年(1189年)1月には
義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った
比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。

しかし
泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、
「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、
閏4月30日、500騎の兵をもって
義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。

義経方は、
主従の武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らが
わずか10数騎で防戦したが、
ことごとく戦死・自害した。

館を
平泉の兵に囲まれた義経は、
一切戦うことをせず持仏堂に篭り、
まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、
自害して果てた。

享年31であった。

衣川の戦い

2020/06/15

6月のあぐろの湯

6月14日
日曜日

6月の
あぐろの湯

偶数月は
散髪もする事にしてるので

散髪・風呂・生ビール
フルコース😄

5月に来た時は
お客さん
20人ぐらいしかいなかったが
今日は
100人ぐらいいるので
客足が
コロナ以前の
元通りに戻ったようですわ😄❗

6月のあぐろの湯

2020/06/14

柴田勝家・お市の方自害

6月14日
日曜日

柴田勝家
お市の方自害

1583年6月14日
(天正11年4月24日)

北ノ庄城で
柴田勝家・お市の方が自害する。

柴田 勝家(しばた かついえ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての
武将・戦国大名。

お市の方(おいちのかた)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。

小谷の方(おだにのかた)、
小谷殿とも称される。

名は
通説では「於市」で、「市姫」とも云い、
『好古類纂』収録の織田家系譜には
「秀子」という名が記されている。

天正11年(1583年)3月12日(旧暦) 

勝家は北近江に出兵し、
北伊勢から戻った秀吉と対峙する
(賤ヶ岳の戦い)。

事前に勝家は、
毛利に庇護されている足利義昭に
戦況を説明し毛利軍とともに
出兵を促す書状を毛利を介して出し
背後を突かせようとするが、
義昭では既に時代に合わずうまくいかなかった。

同様の働きかけは
3月頃に高野山にもしており、
各地にしたようだが実を結ばなかった
(『古証文』所収勝家書状」)。

4月16日(旧暦)

秀吉に降伏していた織田信孝が
伊勢の滝川一益と結び再び挙兵し、
秀吉は岐阜へ向かい
勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めるが、
美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、

4月24日(旧暦)

北ノ庄城にて
お市とともに自害した。

享年62。

辞世は
「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 
雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」。

勝家の最期は、『毛利家文書』とそれに

柴田勝家・お市の方自害