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2020/06/13

はやぶさの日

6月13日
土曜日

はやぶさの日

2010年(平成22年)6月13日

世界初の小惑星
サンプルリターンなどを成し遂げた
宇宙探査機はやぶさが地球に帰還したことを記念。

2010年6月13日、
小惑星探査機「はやぶさ」は
7年あまりの旅を終えて地球へ帰還を果たしました。

落下地点となったオーストラリア
・ウーメラ砂漠の満天の星々に埋め尽くされた夜空の中、夜11時21分(現地時間)に、
「はやぶさ」は
北西から小さな光る点となって現れました。

「はやぶさ」本体は
まだ残っていたキセノンガスと
化学エンジンの酸化剤によって
満月の倍くらいのまばゆい光を放ちながら
2度大きく爆発して、
45秒ほどで南十字星の方角に消えていきました。

燃え尽きようとする「はやぶさ」の脇には
スーッと一筋の光が伸びていました。

「はやぶさ」本体から切り離されて
地球に降りてきたカプセルでした。

カプセルは予想された落下地点に
ほぼぴったりに落下しました。

すぐにヘリコプターが
上空から砂漠に落下したカプセルの姿が確認されました。

2592日間かけて
地球と小惑星の間をおよそ60億kmを飛行した
「はやぶさ」の旅はここに終わりを迎えました。

この帰還に
日本中の人々が拍手し大喜びしました。

はやぶさの日

2020/06/13

九州平定

6月13日
土曜日

九州平定

1587年6月13日
(天正15年5月8日)

島津義久が豊臣秀吉に降伏。

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、
天正14年(1586年)7月から
同15年(1587年)4月にかけて行われた、
羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と
島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。

秀吉の
「九州征伐」、「島津征伐」、「九州の役」、
「九州攻め」、「島津攻め」などの
名称で呼ばれることもある。

戦国時代後半の九州は、
盛強な戦国大名三者による
三つ巴の抗争が展開されており、
これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」
などと呼称することがある。

そのなかから、
薩摩の島津氏が
日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、
肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、
さらに
大友氏の重鎮立花道雪の死により
大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、
北九州への影響力も強めて、
九州平定をほぼ目前にしていた。

豊後の大友宗麟(義鎮)は、
島津氏の圧迫を回避するため、
当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し
天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。

これを受け、
関白となった秀吉は、
天正13年(1585年)10月

島津氏と大友氏に対し、
朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。

しかし、
大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、
島津氏側は家中で激しい議論となった末に
停戦令受諾の方針を決定するとともに
家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、
島津は従前織田信長と近衛前久の調停にしたがって
停戦を守ろうとしたのにもかかわらず
大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので
防戦したものであると弁明させた。

この論理については
大友側も同じ根拠で島津側が命じられた
豊薩和平を破ったと主張している。

さらに
島津義久は天正14年(1586年)1月

源頼朝以来の名門島津が
秀吉のごとき「成り上がり者」を
関白として礼遇しない旨を表明した。

3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して
占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、
島津側は「神意」としてこれを拒否、
大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、
秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。

島津氏側としては、
すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した
秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。

天正14年4月5日

大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、
島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう
懇願している。

秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、
九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景や、
宮部継潤などの中国の大名、
あるいは
長宗我部元親・十河存保などの四国の大名を
用いようとした。

秀吉が
天正14年4月10日付で
毛利輝元にあてた覚書には、
城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、
西海道にいたる道路の修造、
および赤間関(山口県下関市への
兵糧蔵の建造を命じている。

九州平定

2020/06/12

岸 信介総理大臣

6月12日
金曜日

岸 信介総理大臣

1958年(昭和33年)6月12日

岸信介が
57代内閣総理大臣に就任し、
第2次岸内閣が発足。

岸 信介(きし のぶすけ)
1896年〈明治29年〉11月13日
~1987年〈昭和62年〉8月7日)

日本の政治家、官僚。

旧姓佐藤(さとう)。

1945年(昭和20年)8月15日に
戦争が終結した後に
故郷の山口市に帰郷していた所を、
日本を占領下に置いた連合国軍から
A級戦犯被疑者として逮捕され、
東京の巣鴨拘置所に拘置された。

自殺する政治家や軍人もいたなか
岸は「名にかへて このみいくさの 正しさを
来世までも 語り残さむ」と
裁判で堂々と主張するつもりで、

「われわれは戦争に負けたことに対して
日本国民と天皇陛下に責任はあっても、
アメリカに対しては責任はない。

しかし
勝者が敗者を罰するのだし、
どんな法律のもとにわれわれを罰するか、
負けたからには仕方がない。

侵略戦争というものもいるだろうけれど、
われわれとしては追い詰められて
戦わざるを得なかったという考え方を
はっきり後世に残しておく必要がある
として臨んだ。

また、
今次戦争の起こらざるを得なかった理由、
換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、
侵略を目的とする一部の者の恣意から
起こったものではなくして、
日本としては誠に止むを得なかったものであることを
千載迄闡明することが、
開戦当初の閣僚の責任である

終戦後各方面に起こりつつある戦争を起こした事が
怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、
飽く迄聖戦の意義を明確ならしめねばならぬと信じた
とも述べている。

他にも獄中で書いた『断想録』で
新日本は海国として再出発すべきで、
「吾等は曾て世界に比類のない国民的結束と
世界を驚倒する進歩発展を遂げた。

仮令一敗地に塗れたとは云へ、
此の国民的優秀性は
依然として吾等の血に流れて居るのである。
(中略)国民的矜持も
国民の内省による国民的自覚の上に立つものである」
と書いた。

さらに獄中では
「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、
残りの生涯をかけても
どれくらいのことができるかわからないけれど、
せめてこれならと
見極めがつくようなことをやるのは務めではないか」と
戦後の政治復帰を
戦争の贖罪として考えるようになった。

極東国際軍事裁判
(以下東京裁判)については
「絶対権力を用いたショーだったのである」
と述べている。

また
中国の内戦については、
「支那が中共の天下となれば
朝鮮は素より東亜全体の赤化である。
米国の極東政策は完全にソ連に屈服することになる」と
米ソ対立が深まるのを見極めつつ、
反共のためなら
アメリカとも協力するようになっていったといわれ、
大アジア主義者である他方現実主義者でもあった。

東京裁判では
開戦を実質的に決めた
1941年(昭和16年)11月29日の
大本営政府連絡会議の共同謀議には
参加していなかったこと、
東条英機首相に即時停戦講和を求めて
東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず
東条内閣を閣内不一致で倒閣させた
最大の功労者であること、
元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから
人間として絶対的な信頼を得ていたことなどの
事情が考慮されたため、
東條ら7名のA級戦犯が処刑された
翌日の1948年(昭和23年)12月24日
不起訴のまま無罪放免された。

ただし、
多くの戦争指導者同様、
公職追放の身のままであり、
表立って政治活動をすることは不可能なままであった。

岸 信介総理大臣