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2020/06/25

出島

6月25日
木曜日

出島

1641年6月25日
(寛永18年5月17日)

江戸幕府が平戸のオランダ人を
長崎の出島に移住させる。

出島(でじま)は、
1634年
江戸幕府の外人流入防止政策の一環として
長崎に築造された人工島。

扇型で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)。

1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、
1641年から1859年までオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のあるVereenigde Oostindische Compagnie)を通して
対オランダ貿易が行われた。

ペリー来航によって
日本が開国されることになった翌年の
1855年(安政2年)に
日蘭和親条約締結によって
オランダ人の長崎市街への出入りが許可された。

1856年には出島開放令と共に
出島の日本人役人が廃止され、
3年後の1859年には、
出島にあったオランダ商館も閉鎖され、
事実上「出島」としての存在意義は失われた。

1860年、
「長崎海軍伝習所絵図」でオランダの軍人を教師に、
幕府海軍の海軍士官を養成した。

出島全体は
1922年(大正11年)10月12日、
「出島和蘭商館跡」として
国の史跡に指定されている。

明治以降は、
長崎港の港湾整備に伴う
周辺の埋立等により陸続きとなり、
扇形の人工島であった頃の面影は失われたが、
1996年(平成8年)より、
江戸当時の姿への復元を目指す
出島復元整備事業計画が長崎市により進められている。

出島

2020/06/24

自転車屋の生き物歳時記 サルボウガイ

6月24日
水曜日

自転車屋の生き物歳時記

サルボウガイ

缶詰の赤貝
回転寿司の赤貝などは
このサルボウガイです。

我が国では
山陰で赤貝と呼ばれ
中海が主な産地だったが
水質の変化で激減していたとの事でした。

最近
中国電力が火力発電で使う石灰を
中海に撒いたところ
サルボウガイが増え始めたとの事ですわ。

クイチガイサルボウ
(またはクイチガイサルボオ、喰違猿頬、学名:Anadara inaequivalvis) はフネガイ科アカガイ属の二枚貝である。

分布域は
インド洋中部のインドやスリランカから
インドネシアにかけてと
西太平洋北部の日本の房総半島から
南部のオーストラリア北部かけて棲息している。

外来種として定着が記録されているのは
地中海、アドリア海北部、黒海、アゾフ海(南西部)である。

フィリピン、日本では養殖がおこなわれている。

黒海地域で最初に確認されたのは、
1983年にブルガリア沿岸においてで、
その後、
船舶のバラスト水にまぎれて
アドリア海に侵入した。

その後、
黒海沿岸での生息域をひろげ、
黒海南部から北西部にあるアゾフ海のケルチ海峡近くの
キリリフカ(ロシア語版)及びフェドトヴァ砂嘴(ロシア語版)まで棲息する。

自転車屋の生き物歳時記  サルボウガイ

2020/06/24

久米川の戦い

6月24日
水曜日

久米川の戦い

1333年6月24日
(元弘3年/正慶2年5月12日)

新田義貞軍が
武蔵国久米川で鎌倉幕府の軍勢を破る。

久米川の戦い(くめがわのたたかい)は、
元弘の乱の戦いの一つで、
鎌倉時代最末期の元弘3年(1333年)5月12日に、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と
新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。

元弘3年(1333年)5月

新田義貞は
上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。

新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、
利根川を越えて武蔵国へ進む。

利根川を越えた時点で
足利高氏(後に尊氏)の嫡子
千寿王(後に足利義詮)が合流。

外様御家人最有力者
足利高氏の嫡男が加わったことにより、
武蔵七党や河越氏ら周辺の御家人も加わり、
新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。

さらに
新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。

迎撃に来た
桜田貞国、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、
加治二郎左衛門率いる鎌倉幕府軍を、
5月11日に小手指原の戦いで撃破。

幕府軍は
久米川(現在の柳瀬川)で
新田軍の南下を食い止めるべく、
久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)で
迎え出た。

小手指原で勝利した新田軍は、
そのままの勢いで八国山に陣を張り、
ここから指揮をとり麓の幕府軍と対峙した。

現在、この陣の跡地は将軍塚と呼ばれている。

翌日朝、
義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に
奇襲を仕掛けたことで戦闘が発生した。

桜田貞国は奇襲に対する備えを講じており、
奇襲は成功しなかった。

幕府軍は
鶴翼の陣を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、
この戦法を義貞は看破し、
戦法にかかったような芝居を見せ、
陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。

これにより
長崎、加治軍は撃破され、桜田貞国は軍勢を纏め、
分倍河原まで退却した。

小手指原で敗れた幕府軍にはもはや勢いはなく、
戦いは終始新田軍優勢に進み、
幕府軍は多摩川の分倍河原
(現在の東京都府中市)にまで撤退した。

久米川の戦い