2021/03/24
江戸時代の始まり
3月24日
水曜日
江戸時代の始まり
1603年3月24日
(慶長8年2月12日)
徳川家康が征夷大将軍に就任する。
日本史における江戸時代の始まり。
江戸時代(えどじだい)は、
日本の歴史のうち
江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。
徳川時代(とくがわじだい)、
徳川日本(とくがわにほん)とも呼ばれる。
藩政が行われていた
地域の郷土史では藩政時代(はんせいじだい)とも言う。
江戸時代の期間は、
1603年3月24日(慶長8年2月12日)に
徳川家康が征夷大将軍に任命されて
江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、
1868年10月23日
(慶応4年/明治元年9月8日)の
「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、
慶応から明治に改元されるまでの265年間である。
なお、終期については、
ペリーが来航した1853年(嘉永6年)や
桜田門外の変があった1860年(万延元年)、
徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した
1867年11月9日(慶応3年10月14日)
とする見方や、
王政復古の大号令によって
明治政府樹立を宣言した
1868年1月3日(慶応3年12月9日)、
江戸開城された
1868年5月3日(慶応4年4月11日)、
あるいは
廃藩置県が断行された
1871年(明治4年)とする見方も存在する。
2021/03/23
日蓮が鎌倉へ戻る
3月23日
火曜日
日蓮が鎌倉へ戻る
1274年3月23日
(文永11年2月14日)
日蓮が幕府に赦免され、
佐渡国から鎌倉へ帰る。
日蓮(にちれん)
承久4年(1222年)2月16日
~弘安5年(1282年)10月13日は、
鎌倉時代の仏教の僧。
鎌倉仏教のひとつである
日蓮宗(法華宗)の宗祖。
鎌倉での宗教活動を理由に、
得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされる。
流罪を赦免後、
胃腸系の病により入滅。
滅後に
皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と
立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
2021/03/22
屋島の戦い
3月22日
月曜日
屋島の戦い
1185年3月22日
(元暦2年/寿永4年2月19日)
治承・寿永の乱
屋島の戦いがおこなわれ源氏方が勝利。
屋島の戦い(やしまのたたかい)は、
平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日
(1185年3月22日)に
讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。
治承・寿永の乱の戦いの一つ。
2月18日午前2時、
暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、
船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、
義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、
僅か5艘150騎で出航を強行する。
同日午前6時に
義経の船団は暴風雨をつき
通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した。
これは
『吾妻鏡』が出発日または到着日を1日間違え、
実際には1日と4時間の航行時間だった
という見方が有力である。
勝浦に上陸した義経は
在地の武士近藤親家を味方につけ、
屋島の平氏は、
田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて
伊予国の河野通信討伐へ向かっており、
1000騎程しか残っておらず、
それも
阿波国、讃岐国各地の津(港)に
100騎、50騎と配しており、
屋島は手薄であるとの情報を手に入れ、
好機と判断した。
まず、
義経は平氏方の豪族
桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る。
その後、
徹夜で讃岐国へ進撃して
翌2月19日に屋島の対岸に至った。
この頃の屋島は独立した島になっていた
(江戸時代の新田開発により陸続きに近くなった。
ただ、今なお相引川によって隔てられている)。
干潮時には
騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。
寡兵であることを悟られないために、
義経は周辺の民家に火をかけて
大軍の襲来と見せかけ、
一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。
海上からの攻撃のみを予想していた
平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、
屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。
やがて、
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、
船を屋島・庵治半島の岸に寄せて
激しい矢戦を仕掛けてきた。
平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、
郎党の佐藤継信が義経の盾となり
平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。
継信の墓は
庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、
また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした
平教経の童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。
夕刻になり休戦状態となると、
平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、
竿の先の扇の的を射よと挑発。
外せば源氏の名折れになると、
義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、
重忠は辞退し代りに
下野国の武士・那須十郎を推薦する。
十郎も傷が癒えずと辞退し、
弟の那須与一を推薦した。
与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、
弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、
もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、
鏑矢を放った。
矢は見事に扇の柄を射抜き、
矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。
しばらく春風に一もみ二もみされ、
そしてさっと海に落ちた。
『平家物語』の名場面、「扇の的」である。
美しい夕日を後ろに、
赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、
沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、
陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。
これを見ていた平氏の武者、
年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、
白柄の長刀を持っている者が、
興に乗って扇のあった下で舞い始めた。
義経はこれも射るように命じ、
与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。
平家の船は静まり返り、
源氏は再び箙を叩いてどよめいた。
あるものは「あ、射た」といい、
あるものは「心無いことを」といった。
怒った平氏は再び攻めかかる。
激しい合戦の最中に
義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、
これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードは
この際のことである。
2月21日、
平氏軍は志度浦から上陸を試みるが、
義経は80騎を率いてこれを撃退した。
この時、
僅か15騎を率いた義経の郎党の
伊勢義盛が
田内成直の3000騎を降伏させたという話がある。
やがて、
渡邊津から出航した梶原景時が率いる
鎌倉方の大軍が迫り、平氏は彦島へ退いた。
屋島の陥落により、
平氏は四国における拠点を失った。
既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、
平氏は彦島に孤立してしまう。
義経は水軍を編成して、
最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨むことになる。