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2020/07/08

黒船来航

7月8日
水曜日

黒船来航

1853年7月8日
(嘉永6年6月3日)

マシュー・ペリー率いる
アメリカ海軍所属の
東インド艦隊艦船(黒船)4隻が、
江戸湾浦賀湾に来航。

黒船来航(くろふねらいこう)とは、
嘉永6年(1853年)に、
代将マシュー・ペリーが率いる
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の
蒸気船2隻を含む艦船4隻が、
日本に来航した事件。

艦隊は
江戸湾入り口の浦賀
(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、
一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。

結果、
幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、
そこで
アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、
翌年の日米和親条約締結に至った。

日本ではおもに、
この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。

黒船来航

2020/07/07

岩崎弥太郎

7月7日
火曜日

岩崎弥太郎

1884年(明治17年)7月7日

岩崎弥太郎が
工部省長崎造船局の払下げを受け、
長崎造船所として造船事業を始める。

現在の三菱重工業。

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)

天保5年12月11日(1835年1月9日)
~明治18年(1885年)2月7日)は、
日本の実業家。

三菱財閥の創業者で初代総帥。

諱は敏(後に寛)、雅号は東山。

別名を土佐屋善兵衛。

彌太郎とも書く。

明治10年(1877年)の西南戦争で、
政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送に注ぎ、政府軍7万、弾薬、食糧を円滑に輸送した。

鎮圧後、三菱は金一封や銀杯が下賜され、
戦費総額4156万円のうち
三菱の御用船運航収入総額は299万円、
当期利益は93万円(東京市年度予算超)となり、
莫大な利益をあげた。

三菱は、
無償供与された船舶30隻の代金として
120万円を上納したのち、
買い増して所有船61隻となり、
日本の汽船総数の73%を占めた。

明治11年、
弥太郎は、高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)、
深川清澄の屋敷(清澄庭園)、
駒込の庭園(六義園)を購入。

政府の仕事を受注することで
大きく発展を遂げた弥太郎は
「国あっての三菱」という表現をよく使った。

しかし、
海運を独占し政商として膨張する三菱に対して
世論の批判が持ち上がる。

農商務卿 西郷従道が
「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、
弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば
三菱の船を全て焼き払ってもよいが、
それでも政府は大丈夫なのか」と反論した。

明治11年(1878年)、
紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、
明治14年(1881年)には
政変で大隈重信が失脚したことで、
弥太郎は強力な後援者を失う。

大隈と対立していた
井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。

明治13年(1880年)、
東京風帆船の株を買い占め、
東京株式取引場と東京米殻取引株を買収。

明治14年(1881年)、
借金漬けの後藤象二郎支援のため
高島炭鉱を買い取り、長崎造船所も入手した。

明治15年(1882年)7月には、
渋沢栄一や三井財閥の益田孝、
大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して
海運業を独占していた三菱に対抗した。

三菱と共同運輸との
海運業をめぐる戦いは2年間も続き、
運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられた。

明治18年(1885年)2月7日18時30分

弥太郎は満50歳で病死した。

弥太郎の死後、
三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた
共同運輸会社と合併して日本郵船となり、
後を継いだ弟の弥之助は
帝国議会の創立時に天皇から勅選され
貴族院議員となった。

現在では日本郵船は
三菱財閥の源流と言われている。

岩崎弥太郎

2020/07/06

自転車屋の生き物歳時記 マダコ

7月6日
月曜日

自転車屋の生き物歳時記

マダコ

昨日
須磨でボートの練習をしていたら
堤防で
まあまあ大きなマダコを釣っている人がいた。

ええなあ❗

マダコ(真蛸、Octopus sinensis) は、
タコ目・マダコ科に属するタコの一種。

東アジア沿海の熱帯・温帯海域に広く分布。

日本の本州以南では
一般にタコといえば本種を指す。

腕を含めた体長は約60cmで、
腕は胴体(いわゆる「頭」)の約3倍の長さだが、
体はしなやかである程度まで伸縮する。

体表は低い突起が密生し、
さらに全身の皮膚には色素細胞が分布する。

周囲の環境に合わせて
体色や突起の長さを数秒ほどで変更でき、
岩石や海藻によく擬態する。

無脊椎動物の中では
特に知能の高い種だと考えられている。

オスとメスは大きさ(メスのほうが体長が大きくなる)、交接腕の有無(オスに特有)、
吸盤の並び方(メスの吸盤のほうが規則的)で
区別できる。

浅い海の岩礁やサンゴ礁に生息するが、
外洋に面した海域に多く内湾には少ないほか、
真水を嫌って汽水域には生息しない。

同じ海域に
とどまって生息していると考えられているが、
常磐沖では季節によって移動する渡りダコ
または通りダコと呼ばれるものもみられる。

昼は海底の岩穴や岩の割れ目にひそみ、
夜に活動して甲殻類や二枚貝を食べる。

その際には獲物を腕で絡め捕り、
毒性を含む唾液を注入して麻痺させ、
腕の吸盤で硬い殻もこじ開ける。

この唾液はヒトにもかなりの毒性を発揮し、
咬まれた場合は相当な期間、痛みが続くことがある。

天敵は人間以外にも、
海鳥、ウツボ、沿岸性のサメ、エイなどが挙げられる。

危険を感じると墨を吐き、
敵の視覚や嗅覚をくらませる。

腕を自切することもでき、
欠けた腕はしばらくすると元通りに再生する。

繁殖期は春から初夏で、
交尾したメスは岩陰に潜み、
長径2・5mmほどの楕円形の卵を数万-十数万個も産む。

マダコの卵は房状にかたまり、
フジの花のように見えることから
海藤花(かいとうげ)とも呼ばれる。

メスは孵化するまで餌を摂らずに卵の下に留まり、
漏斗で海水を吹きつけたり、
卵を狙う魚などを追い払ったりして卵の世話をする。

しかし
人間や他の動物が一定以上邪魔をすると育児放棄する。

卵は1ヶ月ほどで孵化するが、
メスは孵化を見届けた直後にほとんど死んでしまう。

孵化直後の子ダコは体はほぼ透明で、
胴体部分が体の大部分を占めるが、
体には色素胞があり、腕に吸盤もある。

子ダコは海流に乗って分布を広げるが、
この間に多くが他の生物に捕食される。

海底に定着した後は2~3年ほどで急成長し、
繁殖して寿命を終える。

白いものを餌と認識するようで、
ラッキョウを餌にした釣りにもかかる。

ミカンの栽培が盛んな地域では、
海に落ちたミカンを食べている様子が
確認されたこともある。

日本では重要な水産資源で、
タコ類の中では最も産額が多い。

瀬戸内海の兵庫県明石市沖でとれる
「明石ダコ」が珍重される。

カニなどを餌とした釣りも行われるが、
物陰に潜む習性を利用した
「蛸壺」(たこつぼ)漁法が主流である。

大阪湾沿岸の弥生時代の遺跡からも、
蛸壺用と思われる土器が大量に発掘されており、
古くから食用にされていたことがうかがえる。

塩で揉み洗いしてから茹でて、
酢蛸、煮物、寿司種、燻製や干物、
たこ焼きや明石焼きの具などにする。

茹でずに生で刺身にしたり、
薄切りにしてしゃぶしゃぶにしたりすることもある。

日本の需要は国産だけでは賄いきれないため、
近縁種が
アフリカ大陸北西の大西洋岸諸国などからも
輸入されている。

モロッコからの輸入は
一時日本での消費量の4割を占めていたが、
乱獲によって漁獲量が減少し、
2003年から
1年あたり8か月程度の禁漁規制が続けられている。

モーリタニアも有力な輸出元である。

自転車屋の生き物歳時記  マダコ