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2020/07/14

坂上田村麻呂

7月14日
火曜日

坂上田村麻呂

794年7月14日
(延暦13年6月13日)

桓武天皇の命を受けた
坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発。

坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、
平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。

姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。

父は左京大夫・坂上苅田麻呂。

官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。

勲二等。贈従二位。

4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、
桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、
二度にわたり征夷大将軍を勤めて
蝦夷征討に功績を残した。

薬子の変では
大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。

死後は平安京の東に向かい、
立ったまま柩に納めて埋葬され、
「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と
称えられて武神や軍神として信仰の対象となる。

現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、
後世に多くの田村語り並びに
坂上田村麻呂伝説が創出された。

坂上田村麻呂

2020/07/13

船中八策

7月13日
月曜日

船中八策

1867年7月13日
(慶応3年6月12日)

坂本龍馬が『船中八策』を著す。

船中八策(せんちゅうはっさく)は、
土佐藩脱藩志士の
坂本龍馬が江戸時代末期(幕末)の
慶応3年(1867年)に起草した
新国家体制の基本方針とされるものの俗称。

後世の創作である、という説が有力である。

慶応3年(1867年)6月

坂本龍馬は
いろは丸沈没事件を解決させたのち、
京都に上洛していた
前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して
大政奉還論を進言するため、
藩船の夕顔丸で長崎を出航し、
上洛中の洋上で
参政の後藤象二郎に対して口頭で提示したものを
海援隊士の長岡謙吉が
書きとめ成文化したとされている。

公議政体論のもと、

大政奉還
上下両院の設置による議会政治
有能な人材の政治への登用
不平等条約の改定
憲法制定
海軍力の増強
御親兵の設置
金銀の交換レートの変更

当時としては画期的な条文が
平素な文章として記されている。

龍馬と交流のあった
勝海舟、大久保一翁の影響、
福井藩の政治顧問であった横井小楠からの影響も
指摘されている。

また由利公正や上田藩士の赤松小三郎、
真木保臣(久留米水天宮宮司、久留米藩士)が
1861年(文久元年)に著した
『経緯愚説』から影響を受けたとする説もある。

8番目の経済政策は、
海援隊を組織して貿易を行なっていた
龍馬らしい着眼点といえる
(金銀の交換レートが国内と国外で異なっていると、
二国間で金銀の交換を行なうだけで
利益を上げられるので、
貿易や物価安定に好ましくない)。

薩土盟約や土佐藩の大政奉還建白書、
五箇条の御誓文にまで連なる内容を持ち、
卓越した議論といえる。

船中八策

2020/07/12

7月のあぐろの湯

7月12日
日曜日

7月のあぐろの湯

客足は
普通に戻ってる感じですが

バスで集団やって来る
中国人がいないので空いてますな😃

風呂上がり
いつものセット😄

7月のあぐろの湯