ブログ

2020/07/31

樺太の戦い

7月31日
金曜日

樺太の戦い

1905年(明治38年)7月31日

日露戦争・樺太の戦い

日本軍が樺太全島を占領下に置く。

樺太作戦(からふとさくせん)は、
日露戦争最後の戦い。

アメリカ合衆国大統領の講和勧告後、
日本は講和談判を有利に進めるために
ロシア領の樺太に侵攻し占領した。

樺太占領は、
参謀次長長岡外史の次長就任以前からの持論だった。

しかし、
1904年(明治37年)9月8日には、
長岡が立案した樺太攻略案は不裁可となった。

1905年(明治38年)3月22日に
大本営で樺太遠征準備の会議が開かれたときも、
海軍などの反対で実現には至らなかった。

日露戦争を
最後まで戦い抜く国力がない日本は、
ロシアとの講和を模索した。

5月27日の日本海海戦勝利後の5月31日、
外務大臣小村寿太郎は駐米高平公使に訓令を発し、 
米大統領セオドア・ルーズベルトに、
日露講和につき友誼的斡旋を希望する旨
申し入れるように命じた。

6月1日、
高平は大統領にこの訓令を伝えた。

6月6日、
米国は日露双方に対して、
「日露両国のみならず文明世界全体の利益のため、
講和会議の開始を切望する」との内容の
ルーズベルト公文書を渡した。

6月7日、
ロシア皇帝は
ルーズベルトの停戦勧告を受け入れるとの返事があった。

ロシア皇帝の意向は、
日本軍により樺太が占領される以前に
講和を実現したいとのことであった。

日本の首脳部では樺太占領は消極的だったため、
長岡外史参謀次長は
満州軍総参謀長の児玉源太郎陸軍大将に協力を依頼、
1905年6月14日、
児玉より、講和談判を有利に進めるために、
樺太占領を勧めるとの内容の電報があった。

6月15日に至って、
樺太作戦の件が政府・統帥部の協議で決定し、
6月17日に
明治天皇の裁可が下り、
新設の独立第13師団に出動命令が下された。

一方、
樺太ではサハリン島漁業組合の高井義喜らが
コルサコフ長官ケルバおよび
陸軍駐屯アルチスキー大佐を訪問して
在留邦人の安全と保護の約束を得ていた。

ケルバ長官は高井に
特別優待許可証を授けて便宜を図り、
在留邦人の引き上げの際には
個人的に食糧を用意し
涙ながらに邦人との別れを惜しんだ。

樺太での日ロ両国民の関係は良好だったが
政府は配慮しなかった。

2個旅団編成の樺太遠征軍は、
日本海海戦後新編制された連合艦隊の
第3・第4艦隊からなる北遣艦隊に護送され、

7月7日、
樺太南部の亜庭湾岸に侵攻
(後の大泊郡深海村女麗-メレイに上陸)した。

当時、南樺太のロシア軍の兵員は、
1200名程度と少なかったため、
遊撃戦への転換を図り、
5つのパルチザン部隊が編成された。

日本軍は優勢な戦力を背景に、
8日にはコルサコフ(日本名:大泊)を占領、

10日にはウラジミロフカ
(日本名:豊原市-北豊原駅付近・
現在のロシア名:ユジノサハリンスク)を占領した。

12日には、
ウラジミロフカ西方のダリネエ村
(日本名:豊原市西久保)付近の林で、
日本軍はロシア軍主力を撃破し、捕虜200人を得た。

日本軍は19人が戦死し、58人が負傷した。

16日には
コルサコフ方面司令官
アルチシェフスキー大佐も降伏した。

しかし、
ロシア人パルチザン部隊は
その後も1ヶ月以上にわたって抵抗を続けた。

7月24日、
日本軍は北樺太アレクサンドロフ
(日本名:落石-オッチシ)附近に上陸した。

北樺太には
ロシア軍長官リャプノフ中将以下
5000名を越える兵士がいたが、
ロシア軍はわずかに抵抗を示しつつも、
島の深奥部へ退却したため、
日本軍はその日の夕方にはアレクサンドロフを占領した。

7月29日には
明治天皇より片岡七郎北遣艦隊司令長官に
樺太上陸を完遂し占領の基礎をなしたこと称える
勅語が賜られた。

ロシア軍長官リャプノフ中将は降伏勧告を受けて、
7月31日に降伏した。

樺太占領後の
8月10日から開始された
日露講和会議(ポーツマス条約)の結果、
樺太を東西に横切る
北緯50度線以北はロシアに返還されたが、
以南は正式に割譲させ日本領となった。

樺太の戦い

2020/07/30

梅干の日

7月30日
木曜日

梅干の日

和歌山県みなべ町の東農園が制定。

「梅干しを食べると難が去る」と
昔から言われてきたことから
「なん(7)がさ(3)る(0)」の語呂合せ。

梅干し好きや‼️

梅干の日

2020/07/30

姉川の戦い

7月30日
木曜日

姉川の戦い

1570年7月30日(元亀元年6月28日)

織田信長・徳川家康連合軍が
浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、
戦国時代の元亀元年6月28日
(1570年7月30日)に
近江浅井郡姉川河原
(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で
行われた合戦である。

「姉川の戦い」という呼称は
元々は徳川氏の呼び方であり、
布陣した土地名から
織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、
朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。

姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、
長政が信頼していたと言われている
重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、
浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら
浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。

朝倉氏では
真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。

両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。

一方、
初期戦闘で苦戦した織田方では
坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死している。

横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。

この戦いには敗れたが
この時点では浅井・朝倉連合軍には
まだ余力は残っており、
近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や
石山本願寺の一向一揆と手を結び、
湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返された(志賀の陣)。

これらの戦いでは
織田方の被害も軽微なものとはいえず、
信長の実弟織田信治をはじめ
森可成、坂井政尚などの諸将を失った。

信長は
浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、
周辺敵勢力の掃討に打って出た。

また、
軍事力だけでは攻略は困難と判断した信長は
諜略によって浅井家の内部分裂を謀った。

その代表例が
姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。

姉川の合戦により
領国が南北に分断されてしまっていたため
犬上郡の佐和山城を守備する
磯野員昌らは孤立してしまい
物資の補給すらままならない状態であった。

そこに目をつけた秀吉が
浅井家家中に員昌内通の風説を流し、
長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、
長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請を
すべて拒絶し、
兵糧が残り少なくなった員昌は
ついに織田方に投降し
浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。

次第に弱体化していった
浅井・朝倉両氏は大局的な戦略に方向転換し
甲斐の武田信玄や
本願寺顕如らと組み
信長包囲網を形成していく事になる。

姉川の戦い