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2021/05/04

自転車屋の生き物歳時記 植物編 ツツジ

5月4日
火曜日
みどりの日

自転車屋の生き物歳時記
植物編

ツツジ

外を歩いていると
ツツジが咲いているのを
良く見かけるようになった。

ええ季節なんやけどな
コロナ禍のアホ‼️

ツツジ(躑躅、映山紅)とは
ツツジ科の植物であり、
学術的にはツツジ属(ツツジ属参照)の
植物の総称である。

ただし
ドウダンツツジのようにツツジ属に属さない
ツツジ科の植物にもツツジと呼ばれるものがあるので
注意が必要である。

主にアジアに広く分布し、
ネパールでは国花となっている。

日本ではツツジ属の中に含まれる
ツツジやサツキ、シャクナゲを分けて呼ぶ慣習があるが、学術的な分類とは異なる。

最も樹齢の古い古木は、
800年を超え1000年に及ぶと推定される。

ツツジ属の植物は低木から高木で、
葉は常緑または落葉性で互生、果実は蒴果である。

4月の春先から6月の初夏にかけて
漏斗型の特徴的な形の花
(先端が五裂している)を数個、枝先につける。

また合弁花類である。

ツツジは躑躅と書くが、
その漢字には『見る人が足を止めるほど美しい』
と言う事が由来している。

植物の名前に「あしへん」が使われているのは
このためだった。

ツツジ属の花の花弁には斑点状の模様が多く見られる。

これは蜜標(ガイドマークとも呼ばれる)で
蜜を求める昆虫に蜜のありかを
教えている模様であることがよく知られている。

蜜標によって
花に潜り込む昆虫による受粉ができるように
雄しべがついており、
雌しべの柱頭は蜜標のある方に曲がっている。

人間でも
花を上手に採ると花片の下から蜜を吸うことができるが、多くの種に致死性になりうる
毒成分のグラヤノトキシンなどが含まれ、
特に多く含むレンゲツツジは
庭木として利用されることもあるので
事故を避けるために注意しなければならない。

中毒症状としては、
嘔吐、けいれん、下痢などを起こす。
 
園芸用として交雑種が多く安全な種との見分けは、 専門家でもないかぎり不可能で、
児童などが中毒になった報告がされている。

交雑種が多く毒の含有量もさまざまであるが、
ネジキの場合、牛は体重の1%の摂取で死亡する。

ツツジ属(Rhododendron)は
大きくヒカゲツツジ亜属(有鱗片シャクナゲ亜属)と
ツツジ亜属、無鱗片シャクナゲ亜属、
セイシカ亜属、エゾツツジ亜属に分類されるが、
便宜上常緑性のものの一部が
シャクナゲと呼ばれている。

すなわち、
日本で「シャクナゲ」と呼ばれるものは
ホンシャクナゲの仲間(無鱗片シャクナゲ節)に限られ、常緑であってもそれ以外の殆ど(ほとんど)は
「シャクナゲ」とは呼ばない。

ツツジは
日本では古くから園芸品種として交配され
美しい品種がたくさん生まれた。

中でも
サタツツジとヤマツツジや
ミヤマキリシマなどをかけ合わせて生まれた
クルメツツジはその代表で
種類も多く色とりどりの花が咲き、
満開の時期はまさに圧巻である。

ヒラドツツジも
日本全国でよく見られる大型のツツジで、
花も大きく街路樹としてもたくさん植栽されていて、
ケラマツツジやモチツツジ、キシツツジなどを
親としている。

サツキとマルバサツキ
およびその交配種は特にサツキと呼ばれているが、
クルメツツジなどと同じく常緑ツツジの仲間である。

西洋では
アジアからヨーロッパに
常緑のツツジが持ち込まれて園芸化され、
ベルジアン・アザレアと呼ばれ
現在鉢花として大量に生産されている。

トウヤマツツジを主に、
ケラマツツジやサツキの品種なども
その育種に用いられている。

また日本のレンゲツツジや
北アメリカの落葉性の原種が園芸化されて
エクスバリー・アザレアあるいは
匂いツツジなどと呼ばれている。

北アメリカ大陸には、
その地域に古くから自生する
北米ツツジ(アザレア)も生息している。

自転車屋の生き物歳時記  植物編  ツツジ

2021/05/04

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5月4日
火曜日
みどりの日

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緊急事態宣言の為

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2021/05/04

仏教排斥

5月4日
火曜日
みどりの日

仏教排斥

585年5月4日
(敏達天皇14年3月30日)

仏教排斥を唱える
物部守屋が仏像・寺院等を焼打ち。

物部 守屋(もののべ の もりや)は、
古墳時代の大連(有力豪族)。

物部尾輿の子。

物部氏は有力な軍事氏族である。

物部氏は
日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏派で、
崇仏派の蘇我氏と対立した。

ただし、
物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、
物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。

敏敏達天皇14年(585年)

病になった大臣・蘇我馬子は
敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。 

天皇はこれを許可したが、
この頃から疫病が流行しだした。

守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は
蕃神(異国の神)を信奉したために
疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

天皇は仏法を止めるよう詔した。

守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、
仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、
馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、
達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら
3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって全裸にして、
海石榴市(つばいち/つばきいち/つばきち)、
現在の、(福岡県)(行橋市)の駅舎へ連行し、
群衆の目前で鞭打った。

疫病は更に激しくなり、天皇も病に伏した。

馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上した。

天皇は馬子に限り許した。

馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。

ほどなくして、天皇は崩御した。

殯宮で葬儀が行われ、
馬子は佩刀して誄言(しのびごと)を奉った。

守屋は「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」と笑った。

守屋が身を震わせて誄言を奉ると、
馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。

敏達天皇の次には
馬子の推す用明天皇
(欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位した。

守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。

用明天皇元年(586年)

穴穂部皇子は
炊屋姫(敏達天皇の后、後の推古天皇)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆に阻まれた。

怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。

馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。

守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。

用明天皇2年4月2日(587年)

用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋と中臣勝海は
「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」
と反対した。

馬子は「詔を奉ずるべき」とし、
穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させた。

守屋は睨みつけて大いに怒った。

史(書記)の毛屎が守屋に
群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋は朝廷を去り、
別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海は
彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り
呪詛した。

しかし、
やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った
(自派に形勢不利と考えたとも、
彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず
彦人皇子を擁した自派政権の確立を策した
とも言われている)が、
その帰路、舎人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。

守屋は
一族の物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を
馬子のもとへ遣わし
「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」
と伝えた。

4月9日、用明天皇は崩御した。

守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、
6月7日、
馬子は炊屋姫の詔を得て、
穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。

翌日、宅部皇子を誅した。

7月、
馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。

馬子は
泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や
諸豪族の軍兵を率いて
河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の
守屋の館へ向かった。

守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。

その軍は強盛で、
守屋は朴の木の枝間によじ登り、
雨のように矢を射かけた。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

これを見た厩戸皇子は
仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、
四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、
勝利すれば仏塔を作り仏法の弘通に努めると誓った。

馬子は軍を立て直して進軍させた。

迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺した。

寄せ手は攻めかかり、引き続き守屋の子らを殺害し、
守屋の軍は敗北して逃げ散った。

生き残った守屋の子のうち
片野田と辰狐兄弟は、前者は筑前国鞍手に、
後者には肥前国松浦に流罪されたという。

この戦いは丁未の乱と呼ばれる。

八尾市南太子堂には
迹見赤檮が物部守屋を射たときの
矢を埋めたとされる鏑矢塚、
その南西には弓を埋めたとされる弓代塚がある
(迹見赤檮発箭地史蹟、
とみのいちいはっせんちしせき)。

厩戸皇子は
摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に
四天王寺を建立した。

物部氏の領地
(『本願縁起』曰く河内国の弓削・鞍作・祖父間・衣摺・虵屮・足代・御立・葦原と
摂津国の於勢・模江・鶏田・熊凝)と
奴隷(『本願縁起』曰く273人)は両分され、
半分は馬子のものになった。

馬子の妻が守屋の妹であるので
物部氏の相続権があると主張したためである。

また、半分は四天王寺へ寄進された。

仏教排斥