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2020/08/04

小田原征伐(豊臣秀吉の天下統一)

8月4日
火曜日

小田原征伐
(豊臣秀吉の天下統一)

1590年8月4日
(天正18年7月5日)

北条氏直が
豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。

小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、
天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉が、
小田原北条氏(後北条氏)を降した歴史事象・戦役。

北条氏と真田氏(上杉氏)の間での領土紛争を
豊臣秀吉が仲裁したが、
この沼田領裁定の一部について、
北条氏が武力で履行を行ったことが
豊臣政権の惣無事令違反と看做され、
北条氏は豊臣氏の軍事力による攻撃を受けた。

北条氏本拠であった
小田原城の攻囲戦が著名であるため
このような名称で呼ばれるが、
小田原城攻略戦だけではなく、
並行して行われた
後北条氏領土の掃討攻略戦も
同戦役に含むものとして扱う。

小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、
小田原の戦い、小田原の陣、
小田原城の戦いとも呼ばれた。

後陽成天皇は
秀吉に対し後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、 遠征を前に秀吉に節刀を授けており、
関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。

小田原征伐(豊臣秀吉の天下統一)

2020/08/03

自転車屋の生き物歳時記 ハモ

8月3日
月曜日

自転車屋の生き物歳時記

ハモ

本日は
古来の関西では
は(8)み(3)と呼ばれていた
ハモの日との事です。

ハモの美味しい季節でありますね❗

ハモ(鱧、Muraenesox cinereus )は、
ウナギ目・ハモ科に分類される魚の一種。

沿岸部に生息する大型肉食魚で、
京料理に欠かせない食材として扱われる。

生鮮魚介類として流通する際には
近縁種のスズハモ M. bagio (Hamilton, 1822) も
一般に「ハモ」と称されており区別されていない。

名前の由来には、食む(はむ)に由来するとみる説、
「歯持ち」に由来するとみる説、
中国語の「海鰻」(ハイマン)に由来するとみる説、
マムシに姿が似ていたことから
蝮(ハミ)に由来するとみる説、
食感が「はもはも」しているから、という説、
口を張ってもがくことに由来するとみる説など
諸説ある。

中国語由来説については、
中国では海鰻と称して食されているものの
可能性が低いとする説もある。

地方名にハム(広島県)、スズ(徳島県)、
バッタモ(京都府丹後地方)、ウニハモ(福井県)、
カマスアナゴ(長崎)など。

北海道・東北地域では
アナゴ類もしくはマアナゴのことを
ハモあるいはハモの古語であるハムと呼ぶ地域が
広域に存在する。

現代中国語で
ハモは「海鰻」(hǎimán)といい、
「鱧」(lǐ)という漢字はライギョ類を表す。

全長1mほどのものが多いが、最大2・2mに達する。

体は他のウナギ目魚類同様に
細長い円筒形で、体色は茶褐色で腹部は白く、
体表に鱗がない。

体側には側線がよく発達し、肛門は体の中央付近にある。

ウナギ目の中では各ひれがよく発達していて、
背びれは鰓蓋の直後、
尻びれは体の中央付近から始まって尾びれと連続する。

胸びれも比較的大きい。

口は目の後ろまで裂け、吻部が長く発達し、
鼻先がわずかに湾曲する。

顎には犬歯のような鋭い歯が並び、
さらにその内側にも細かい歯が並ぶ。

漁獲した際には大きな口と鋭い歯で咬みついてくるので、生体の取り扱いには充分な注意が必要である。

ハモという和名も、
前述のようによく咬みつくことから
「食む」(はむ)が変化した呼称という説もある。

西太平洋とインド洋の熱帯・温帯域に広く分布し、
日本でも本州中部以南で見られる。

水深100mまでの沿岸域に生息し、
昼は砂や岩の隙間に潜って休み、
夜に海底近くを泳ぎ回って獲物を探す。

食性は肉食性で小魚、甲殻類、頭足類などを捕食する。

産卵期は夏で、浮遊卵を産卵するが、
ウナギのような大規模な回遊はせず、
沿岸域に留まったまま繁殖行動を行う。

レプトケファルスは秋にみられ、
シラス漁などで混獲されることがある。

ウナギ目の他の魚同様、
血液に有毒なイクシオトキシンを含むが、
加熱によりそれを失活させて食べることができる。

消費地域には偏りがある。

京都市では、
生活に密着した食材で、
スーパーにおいても鱧の湯引きなどは
広く販売されており、安くはなくとも、
季節の食材として扱われている。

特に祇園祭の暑い季節に
長いものを食べると精力が付くとして、
鰻同様に食べる風習があり、
夏の味覚の代表的なものとして珍重される。

家庭で「骨切り」をすることは難しいが、
鮮魚店で骨切りをして、生で売ることも普通である。

大阪市の天神祭でも鱧料理は欠かせない。

京阪以外の地域では、
味は良いが骨が多く食べにくい雑魚として扱われ、
蒲鉾や天ぷらの材料として使われてきた。

特に大阪などの蒲鉾屋では
身を使った後のハモの皮が売られていることがある。

一方、
関東など東日本では京料理を提供する
高級日本料理店以外ではあまり目にかかることはなく、
生活に密着した食材とは言えない。

このような店で出される食材のため、
高級魚というイメージもある。

消費量も
関東の鱧消費量は関西の十分の一程度であり、
関西と関東の文化の違いが
現在に至るまで如実に現れている食材の一つである。

同様の食材としては
フグ・クエ、
逆に東日本で人気の高い食用魚として
マグロなどがあげられる。

大分県中津市でも
特産品としてよく消費されており、
JR中津駅には鱧をデザインした
長いベンチも置かれている。

京都において、
何故ハモを食べる文化が発達したかについては、
生命力の非常に強い数少ない魚であるため、
輸送技術が発達していなかった時代でも、
大阪湾や明石海峡で採れたハモを、
夏に内陸の京都まで生きたまま
輸送できたからだといわれている。

また、
一説には養蚕が盛んで
京都へ絹糸を供給していた
大分県中津市の行商人などが京都へ食文化を伝えたとも、一説には
中津藩が隣接する天領日田に招聘されていた
京の料理人が往来の途中に隣国中津の漁師から
「骨切り」の技術共々を教えられ
持ち帰ったとも言われており
骨切り技術の発祥地である中津の料理人が伝え
現在につながっている。

ハモの蒲焼は、よくウナギの蒲焼と対比される。

需要があるため、
日本産だけでなく韓国や中国などから
輸入も行われている。

中国では
ハモは生命力が強く、
薬膳的な効能としても
益気作用~“気”のエネルギーを高めるとともに
胃腸機能を良くする作用があるとされるほか、
利尿作用もあるとされている。

日本列島では
ハモは縄文時代から利用されている。

京都市中京区の本多甲斐守京邸からは
多数の動物遺体が出土し、
ハモの前頭骨が出土している。

この前頭骨は正中方向に切断されており、
椀物に用いる出汁を引くために
切断されたものと考えられている。

また、
別の前頭骨には刃物による横方向の切痕が野降り、
目打ちで頭部を固定した際に暴れまわるハモの頭部を
包丁で叩いた傷と考えられている。

また、
現在のハモ調理では行われないが、
歯骨からは包丁で危険な歯を取り除いた傷も見られる。

自転車屋の生き物歳時記   ハモ

2020/08/03

壬申の乱

8月3日
月曜日

壬申の乱

672年8月3日
(弘文天皇元年/天武天皇元年7月2日)

美濃に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が
大友皇子(弘文天皇)に対し挙兵。

壬申の乱(じんしんのらん)は、
天武天皇元年6月24日 - 7月23日
(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)
に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子
・大友皇子(1870年(明治3年)に
弘文天皇の称号を追号)に対し、
皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が
兵を挙げて勃発した。

反乱者である大海人皇子が勝利するという、
日本では例を見ない内乱であった。

名称の由来は、
天武天皇元年が
干支で壬申(じんしん、みずのえさる)
にあたることによる。

660年代後半、
都を近江宮へ移していた天智天皇は
同母弟の大海人皇子を皇太子
(『日本書紀』には「皇太弟」とある。

また、
大海人皇子の立太子そのものを
『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、
天智天皇10年10月17日
(671年11月23日)、
自身の皇子である
大友皇子を太政大臣につけて後継とする
意思を見せはじめた。

その後、天智天皇は病に臥せる。

大海人皇子は
大友皇子を皇太子として推挙し、
自ら出家を申し出て、
吉野宮(現在の奈良県吉野)に下った。

そして
天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れたとされる。

12月3日(672年1月7日)、
近江宮の近隣山科において
天智天皇が46歳で崩御した。
(扶桑略記などでは四国の山中で崩御され
玉体は近江宮に戻されたとある。)

大友皇子が跡を継ぐが、
年齢はまだ24歳に過ぎなかった。

大海人皇子は
天武天皇元年6月24日(7月24日)に
吉野を出立した。

まず、名張に入り駅家を焼いたが、
名張郡司は出兵を拒否した。

大海人皇子は
美濃、伊勢、伊賀、熊野や
その他の豪族の信を得ることに成功した。

続いて伊賀に入り、
ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が
兵約500で参戦した。

そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で
長男の高市皇子の軍と合流した
(鈴鹿関で合流したとする説もある)。

さらに伊勢国でも
郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。

美濃では大海人皇子の指示を受けて
多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。

これにより皇子は
東海道、東山道の諸国から
兵を動員することができるようになった。

美濃に入り、
東国からの兵力を集めた大海人皇子は
7月2日(7月31日)に
軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は
東国と吉備、筑紫(九州)に
兵力動員を命じる使者を派遣したが、
東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、
吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。

特に筑紫では、
筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に
出兵を断ったのだが、
大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、
断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、
栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、
暗殺できなかった。

それでも近江朝廷は、
近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、
近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、
大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。

吹負はこのあと
西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。

この方面では近江朝の方が優勢で、
吹負の軍はたびたび敗走したが、
吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。

やがて紀阿閉麻呂が指揮する
美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、
指導部の足並みの乱れから前進が滞った。

大海人皇子方と近江方を区別するため
「金」という合言葉を用いた。

村国男依らに率いられて
直進した大海人皇子側の部隊は、
7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、
以後連戦連勝して箸墓での闘いでの
勝利を経て進撃を続けた。

7月22日(8月20日)に
瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で
近江朝廷軍が大敗すると、
翌7月23日(8月21日)に
大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。

美濃での戦いの前に、
高市郡に進軍の際、
「高市社の事代主と身狭社に居る生霊神」が神懸り
「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」
と言いそうすせれば大海人皇子を護ると神託をなした。

翌天武天皇2年(673年)2月、
大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、
再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に
移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため、
新たな制度の構築、すなわち服制の改定、
八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。

天武天皇は天智天皇よりも
さらに中央集権制を進めていったのである。

壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。

壬申の乱