2021/05/09
母の日
5月9日
日曜日
母の日
母の日(ははのひ)は、
日頃の母の苦労をねぎらい、母への感謝を表す日。
アメリカでは
アン・ジャービスへの教会での追悼にさかのぼり、
毎年5月の第2日曜日に祝い、
日本もそれに倣っているが、
その起源は世界中で様々であり日付も異なる。
例えば
スペインでは毎年5月第1日曜日、
北欧スウェーデンでは
毎年5月の最後の日曜日に当たる。
しかし
週は違えど
どこの国も
母の日は5月なんやね⁉️
2021/05/08
施薬院(せやくいん)
5月8日
土曜日
施薬院(せやくいん)
730年5月8日
(天平2年4月17日)
光明皇后の発意により施薬院を設置。
施薬院(やくいん / せやくいん)は、
奈良時代に設置された令外官である
庶民救済施設・薬園。
「施」の字はなぜか読まれないことが多く、
中世以降は主に「やくいん」と呼ばれた。
天平2年(730年)
光明皇后の発願により、
悲田院とともに創設され、
病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。
諸国から献上させた薬草を無料で貧民に施した。
東大寺正倉院所蔵の
人参や桂心などの薬草も供されている。
また、
光明皇后自ら病人の看護を行ったとの伝説も残る。
光明皇后崩御の後は知院事2名が置かれ、
平安京へ遷都後も、
施薬院は五条室町近くに移されて続行し、
山城国乙訓郡に施薬院用の薬園が設けられた
(『日本後紀』
弘仁2年2月5日(811年3月3日)条)。
天長2年(825年)には、
別当、院使、判官、主典、医師の各1名を置く
職制が定められ、延喜式でも継続された。
『類聚三代格』所収の寛平8年閏正月17日
(896年3月5日)付太政官符によれば、
施薬院と東西悲田が病人と孤児を収容し、
前者は預と雑使が治療にあたり、
後者は預・雑使に加えて乳母・養母が養っていたこと、
院司が預以下を指揮監督していたことが記されている。
その一方で平安時代に入ると
藤原氏が設立者である光明皇后の実家であることを理由として施薬院の運営に介入を行うようになる。
藤原冬嗣が
施薬院に食封1000戸を寄進したものの、
その使い道を藤原氏の困窮者の救済に限定させたことが『続日本後紀』承和3年5月甲子(26日)
(836年6月13日)条に記されている。
こうした経緯から
別当のうち1人は藤氏長者の推薦によって
藤原氏から補任される慣例が
平安時代を通じて行われた
(残り1名は大外記から補任されていた。)。
院使は実務にも関与したことから
医学知識のある者が任命され、
官司請負制が確立される
11世紀頃から丹波氏が世襲するようになる。
2021/05/07
週末家飲み
5月7日
金曜日
週末家飲み
緊急事態宣言の為
週末家飲み
スーパードライ350
角ハイボール濃いめ500
中華風春雨サラダ
イワシ醤油味付け
スモークチーズ
〆の炭水化物
マルちゃん
麺づくり担々麺