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2021/06/04

虫の日

6月4日
金曜日

虫の日

1988年(昭和63年)に
漫画家の手塚治虫が初代会長をつとめた
日本昆虫倶楽部が「ムシの日」を制定。

同日、
「カブトムシ自然王国」を宣言している
福島県常葉町(現:田村市常葉町)の
常葉町振興公社(現:田村市常葉振興公社)が
「ムシの日」制定した。

また、
2018年(平成30年)には
解剖学者の養老孟司によって「虫の日」が制定される。

2015年(平成27年)
養老孟司の発案により、
鎌倉の建長寺に、建築家の隈研吾がデザインした
虫のための慰霊碑「虫塚」がに建立された。

オイラは
子供の頃から
友達から昆虫博士と呼ばれ
相変わらず
虫が大好きなオッサンです。

虫の日

2021/06/03

自転車屋の生き物歳時記 マルハナバチ

6月3日
木曜日

自転車屋の生き物歳時記

マルハナバチ

店先に置いているプランターに
クマバチのような丸いハチが来ていた。

クマバチほどは大きくないので
マルハナバチですな。

マルハナバチ(丸花蜂)とは、
ミツバチ科ミツバチ亜科
(独立のマルハナバチ亜科とすることもある)のハチ。

世界で約250種が知られている。

最近の分類体系では
マルハナバチ属(Bombus)1属のみを含むとされる。

アジア中央部の草原地帯に分布の中心を持ち、
ヨーロッパ、東アジア、東南アジア
、南北アメリカ大陸にも分布する。

人間との関係では、
農作物(トマトやナスなど)の授粉(花粉媒介)に
使われる。

マルハナバチの姿はミツバチに似て、
丸みをおびており毛深いが、ミツバチより少し大きい。

北方系の昆虫であり、
高緯度地方に数多くの種が分布している。

日本でも珍しくはないが、
ヨーロッパではより身近である。

また、
牧草の主力の一つである
アカツメクサなどの花粉媒介を行う益虫として、
日本よりはるかに重視され、親近感が強い。

体色は黒で、白や黄色の筋状の模様があるものが多い。

体毛が長いため
花粉を集めるときに効率が良くなっており、
温帯地方の虫媒花の送粉者として
非常に重要な存在である。

ミツバチと同じように
女王バチのみが産卵を行う社会生活を行い、
交尾を済ませた女王バチのみが越冬し、
翌春単独でコロニーを創始する。

ただし、巨大なコロニーは作らず、家族生活に近い。

温帯に生息する種の多くは、
女王バチが春先に単独で
ネズミの古巣などの空間を利用して巣づくりを始める。

次第に働きバチが増えると女王バチは産卵に専念し、
夏から秋にかけて次世代の女王バチとオスバチを産む。

オスバチと交尾した新女王は
土の中などに潜り込んで越冬する。

熱帯に生息する種の中には、
ミツバチと同じように巣分かれ(分封)で
増えるものもある。

これらの社会性の種のほかに
他のマルハナバチの巣の中に潜り込んで
餌を搾取する労働寄生性の種があり、
ヤドリマルハナバチ亜属としてまとめられている。

日本には15種のマルハナバチが生息している。

北海道と本州で種の構成が異なり、
また一部の種で亜種への分化がみられる。

本州では、中部山岳地帯で多くの種が見られる。

マルハナバチは
多くの植物にとって重要な送粉者である。

種によって吸蜜に用いる口器(中舌)の長さが異なり
中舌の長いナガマルハナバチ、トラマルハナバチなどは
蜜源の深い花を、
中舌の短いクロマルハナバチ、オオマルハナバチなどは
蜜源の浅い花を訪れる傾向がある。

本亜科(または本属)の各種は穏やかな性質であり、
積極的に人を刺すことは無い。

刺激をすると刺すことがあるが、毒性は弱い。

それでも刺されるとかなり痛むという。

最近では
トマトやナスの栽培の受粉でも
マルハナバチが利用されている。

利用されているのは、
セイヨウオオマルハナバチが中心である。

ホルモン処理よりも
省力化が進み種子が多くできるので、
トマトでは空洞果が出来にくくなり
果肉の食味は甘くなり、ゼリー部は酸っぱくなるという。

ただしマルハナバチを利用すると、
これに害をなす農薬は使えないので
天敵利用に進むことになる。

しかし一方で
セイヨウオオマルハナバチは世界各地で野生化し、
強い競争力による在来花蜂の減少や
近縁の在来種との交雑、
あるいは在来植物の結実率低下など、
様々な生態系の攪乱を引き起こすとして
問題にされている。

栽培用ハウスの外に出さないようにし、
また在来種の販売利用も始まっているが
在来種利用にも地域移動により
生態系が攪乱されるという問題があるとする向きもある。

日本では2018年時点で、
マルハナバチを使う農地3310ヘクタールのうち、
セイヨウオオマルハナバチが75%、
在来種クロマルハナバチが25%である。

農林水産省園芸作物課は
授粉効果に差はないという見解を示しており、
在来種への転換を奨励している。

自転車屋の生き物歳時記  マルハナバチ

2021/06/02

倶利伽羅峠の戦い

6月2日
水曜日

倶利伽羅峠の戦い

1183年6月2日
(寿永2年5月11日)

治承・寿永の乱

倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い
(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、
または、砺波山の戦い
(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、
平安時代末期の
寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、
越中・加賀国の国境にある
砺波山の倶利伽羅峠
(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で
源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。

治承・寿永の乱における戦いの一つ。

治承4年(1180年)

以仁王の平家追討の令旨に応じて
信濃国で挙兵した源義仲は、
翌治承5年(1181年)に
平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、
その勢力を北陸道方面に大きく広げた。

寿永2年(1183年)4月

平家は平維盛を総大将とする
10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。

平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、
義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。

だが5月9日明け方、
加賀国より軍を進め般若野
(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、
木曾義仲軍の先遣隊である
義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて
戦況不利に陥り、
平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。

一旦後退した平家軍は、
能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、
加賀国と越中国の国境の砺波山に
平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の
二手に分かれて陣を敷いた。

5月11日、
義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、
義仲本隊は砺波山へ向かう。

義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして
平家軍の油断を誘い、
今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。

平家軍が寝静まった夜間に、
義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。

浮き足立った平家軍は退却しようとするが
退路は樋口兼光に押さえられていた。

大混乱に陥った平家軍7万余騎は
唯一敵が攻め寄せてこない方向へと
我先に逃れようとするが、
そこは倶利伽羅峠の断崖だった。

平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。

平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、
平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。

この戦いに大勝した
源義仲は京へ向けて進撃を開始し、
同年7月に遂に念願の上洛を果たす。

大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、
安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

倶利伽羅峠の戦い