2021/06/16
和菓子の日
6月16日
水曜日
和菓子の日
全国和菓子協会が
1979年(昭和54年)に制定。
848年(嘉祥)、
疫病退散を祈念するため元号を「嘉祥」と改元し
6月16日に16の数にちなんだ
菓子・餅を神前に供えたという
「嘉祥菓子」の故事に由来。
2021/06/15
源義経が自害(衣川の戦い)
6月15日
火曜日
源義経が自害
(衣川の戦い)
1189年6月15日
(文治5年閏4月30日)
衣川合戦。
源義経追捕の宣旨により
藤原泰衡が衣川館を襲う。
源義経は自害。
奥州藤原氏三代・藤原秀衡は
関東以西を制覇した源頼朝の勢力が
奥州に及ぶことを警戒し、
義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、
文治3年(1187年)10月29日に病没した。
頼朝は
秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、
義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。
一方、
義経は文治4年(1188年)2月に
出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。
また文治5年(1189年)1月には
義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った
比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。
しかし
泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、
「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、
閏4月30日、
500騎の兵をもって
義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。
義経方は、
主従の武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らが
わずか10数騎で防戦したが、
ことごとく戦死・自害した。
館を平泉の兵に囲まれた義経は、
一切戦うことをせず持仏堂に篭り、
まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、
自害して果てた。
享年31であった。
源氏の頭領だった
頼朝は立場上
自分に伺いも立てずに
身勝手な行いをする義経を
疎ましく思っていたのもあるのだろうけど
戦巧者の義経が
自分の足元を掬うのが
恐かったのもあるんでしょうね
2021/06/14
健康に良い食べられる野草シリーズ ハコベ
6月14日
月曜日
健康に良い食べられる野草シリーズ
ハコベ
「はこべら」として
春の七草のひとつになっている。
名の由来は、
日本最古の本草書『本草和名』(918年)に、
波久部良(はくべら)として登場しており、
これが転訛したものと考えられているが、
ハクベラの語源についてはわかっていない。
市販されている七草は一般にコハコベである。
コハコベが
日本に入ってきたのは明治時代といわれている。
2000年に
コハコベは帰化植物とする
研究者の見解が地方紙に出されるなど
生産農家に混乱が広がったが、
コハコベが
江戸時代以前に生育していた可能性も指摘されている。
ミドリハコベは
もともと日本に生育していた種とされ、
春の七草はミドリハコベとする文献もある。
生け垣のわき、道端、畑などに自生し、
春に茎の先や葉腋に白い5花弁を開くが、
花弁の先が2つに深く切れ込んでいるため
10弁に見える。
全草に葉緑素(クロロフィル)を含み、
昔から食用植物として知られ、
春の若い茎葉を茹でてお浸しなどにして食べたり、
小鳥の餌としても馴染みがある。
全体に緑色のミドリハコベと、
茎が暗紫色を帯びて小型のコハコベともに
薬用植物としても知られ、
花期の茎葉を干し上げたものは生薬となり、
繁縷(はんろう、ハコベ)と称している。
繁縷を粉末にして同量の塩と混ぜたものは
「ハコベ塩」といい、
歯槽膿漏防止に役立つ歯磨き粉代わりに利用された。