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2020/09/11

磐井の乱

9月11日
金曜日

磐井の乱

527年9月11日
(継体天皇21年8月1日)

物部麁鹿火が
磐井の乱の平定を命じられる。

磐井の乱(いわいのらん)は、
527年(継体21年)に
朝鮮半島南部へ出兵しようとした
近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を
筑紫君磐井
(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、
翌528年(継体22年)11月、
物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、

または王権間の戦争。

磐井の乱に関する文献史料は、
ほぼ『日本書紀』に限られているが、
『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や
『古事記』(継体天皇段)、
『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも
簡潔な記録が残っている。

なお、
『筑後国風土記』には
「官軍が急に攻めてきた」となっており、
また『古事記』には
「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、
反乱を思わせる記述がないため、
『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとして
その全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。

1978年(昭和53年)に
埼玉県の稲荷山古墳から出土した
金錯銘鉄剣の発見により、
統一的な中央政権の形成時期を
5世紀後半までさかのぼらせる議論が
有力となっていくと、
磐井の乱の意義・位置づけも
また再検討が加えられるようになった。

朝鮮半島との関係に着目し、
ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、
磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする意見、
磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、
むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、
磐井の乱に対する見方は必ずしも一致していない。

一方、
考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる
石製表飾(石人石馬)や
装飾古墳などの分布・消長の状況が判明するに従って、
九州広域にわたって栄えていた
特有の文化圏と磐井の乱とを関連づけるようになった。

すなわち
磐井の乱までのヤマト王権とは
強い中央集権体制であったのか、
それとも各地豪族の連合的政権であったのか、
についての議論がなされている。

磐井の乱

2020/09/10

二百二十日

9月10日
木曜日

二百二十日

二百二十日(にひゃくはつか)は
雑節のひとつで、
立春を起算日(第1日目)として220日目
(立春の219日後の日)にあたる。

21世紀初頭の現在では
平年なら9月11日、閏年なら9月10日である。

数十年以上のスパンでは、
立春の変動により9月12日の年もある。

八朔(旧暦8月1日)・二百十日とともに、
天候が悪くなる農家の三大厄日とされてきた。

統計的には、
台風は
二百十日から9月下旬にかけて襲来することが多く、
二百十日よりも二百二十日の方を警戒する必要がある。

二百二十日

2020/09/09

自転車屋の生き物歳時記 イチモンジセセリ

9月9日
水曜日

自転車屋の生き物歳時記

イチモンジセセリ

例年
ウチの近隣では
お盆過ぎぐらいには見かける
イチモンジセセリ

今年はやはり暑すぎるのか
今週になって
チラホラ見かけるようになった。

イチモンジセセリ(一文字挵、Parnara guttata)は
チョウ目(鱗翅目)セセリチョウ科に属する
チョウの1種。

特徴として
後翅裏の銀紋が一文字状に並んでいるため
この名前がある。

前翅長は約20mm。

全身が茶色一色で、後翅裏に4つの銀紋が並び、
和名の由来となっている。

本種を含め
これら茶色のセセリチョウのグループは
似かよっており、
同定する際には後翅裏の模様で見ることが多い。

人家周辺から里山にかけて見られ、
羽音を立てて敏速に飛ぶ。

花・湿地・汚物・腐果などいろいろなものに集まる。

近縁種に
チャバネセセリ・オオチャバネセセリがいる。

中足にトゲがない点から
オオチャバネにより近いとされる。

幼虫の食草は、
イネやススキ等のイネ科やカヤツリグサ科の植物である。

そのためイネの害虫とされ、
イネツキムシ、イネツトムシなどと呼ばれている。

イネとのつながりは
前2種より本種のほうがもっとも近いとされる。

成虫は年3~5回(寒冷地2回)、
6~8月頃に発生し南下、10月ごろまでいる。

幼虫または蛹で越冬する。

静岡県西部の一部地域では、
「チンメ」と呼ばれている。

日本全土に分布するが北海道ではあまり個体数がない。

土着しているのは関東以南と思われる。

国外では
ヒマラヤ・インドシナ半島・中国大陸中北部
・台湾・朝鮮半島。

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