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2020/09/14

道鏡(どうきょう)

9月14日
月曜日

道鏡

770年9月14日
(宝亀元年8月21日)

道鏡が下野国薬師寺別当に配流。

道鏡(どうきょう)
文武天皇4年(700年)?
~宝亀3年4月4日(772年5月13日))は、
奈良時代の僧侶。

俗姓は弓削氏(弓削連)で、
弓削櫛麻呂の子とする系図がある。 

俗姓から、
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。

弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族。

複数の系統があるが、
道鏡の属する系統(弓削連)は物部氏の一族とされ、
物部守屋が母姓を仮冒して弓削大連と称して以降、
その子孫が弓削氏を称したという。

孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから
退けよとの藤原仲麻呂からの奏上があったと語られるが、この「大臣」は大連の地位にあった
物部守屋を指すと考えられる。

天智天皇の皇子である志貴皇子の落胤とする異説もある。

文武天皇4年(700年)に
河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれた。

若年の頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、
良弁から梵語(サンスクリット語)を学んだ。

禅に通じていたことで知られており、
これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、
禅師に列せられた。

天平宝字5年(761年)
平城宮改修のために都を一時的に
近江国保良宮に移した際、
病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して
看病して以来、その寵を受けることとなった。

淳仁天皇は常にこれに対して意見を述べたため、
孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。

天平宝字7年(762年)
慈訓に代わって少僧都に任じられ、
翌天平宝字8年(764年)には
藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、道鏡が太政大臣禅師に任ぜられた。

翌年には法王となり、
仏教の理念に基づいた政策を推進した。

道鏡の後ろ盾を受け、
弟の浄人が8年間で従二位大納言にまで昇進するなど、 一門で五位以上の者は10人に達した。

これに加えて
道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する
反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。

大宰主神(だざいのかんづかさ)の
中臣習宜阿曽麻呂が宇佐神宮より
道鏡を天皇の位につければ
天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。

しかし、
和気清麻呂が勅使として参向し
この神託が虚偽であることを上申したため、
道鏡が皇位に就くことはなかった。

神護景雲4年(770年)に
称徳天皇が崩御すると、
道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、
造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、
赴任地の下野国で没した。

道鏡死去の報は、
宝亀3年4月7日(772年5月13日)に
下野国から光仁天皇に言上された。

道鏡は
長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、 親族4名(弟・弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)が捕えられて土佐国に配流された。(「続日本紀」)

庶人として葬られたといい、
龍興寺(栃木県下野市)境内に
道鏡の墓と伝えられる塚がある。

道鏡(どうきょう)

2020/09/13

兵庫消防団第六分団 新入団員歓迎バーベキュー

9月13日
日曜日

兵庫消防団第六分団
9月の定期訓練

本来なら来週ですが
兵庫消防団全体の
夏季特別訓練が
コロナの影響でなくなったので
定期訓練

そのあと
しあわせの村で
お風呂に入って
新入団員歓迎会の
バーベキューでした😄‼️

兵庫消防団第六分団  新入団員歓迎バーベキュー

2020/09/13

兵庫消防団第六分団 9月の定期訓練

9月13日
日曜日

兵庫消防団第六分団
9月の定期訓練

本来なら来週ですが
兵庫消防団全体の
夏季特別訓練が
コロナの影響でなくなったので
定期訓練

台風の季節でもあり
地域の防潮堤施設の視察訓練

兵庫消防団第六分団  9月の定期訓練