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2021/07/02

半夏生(はんげしょう)

7月2日
金曜日

半夏生(はんげしょう)

半夏生(はんげしょう)は雑節の1つで、
半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃。

一説に、
ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が
名前の通り半分白くなって
化粧しているようになる頃とも。

様々な地方名があり、
ハゲ、ハンデ、ハゲン、ハゲッショウなどと呼ばれる。

七十二候の1つ
「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、
かつては夏至から数えて11日目としていたが、
現在では天球上の黄経100度の点を
太陽が通過する日となっている。

毎年7月2日頃にあたる。

この頃に降る雨を
「半夏雨」(はんげあめ)と言い、
大雨になることが多い。

地域によっては「半夏水」(はんげみず)とも言う。

農家にとっては大事な節目の日で、
この日までに「畑仕事を終える」
「水稲の田植えを終える」目安で、
この日から5日間は休みとする地方もある。

この日は天から毒気が降ると言われ、
井戸に蓋をして毒気を防いだり、
この日に採った野菜は
食べてはいけないとされたりした。

なお、
七夕にも農作業を休むとする伝承が
多くの地域に伝わる。

三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、
ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、
この時期に
農作業を行うことに対する戒めともなっている。  

奈良県の香芝市周辺
(大阪府南河内地方でも)では
「はげっしょ」と言い、
農家では小麦を混ぜた餅を作り黄粉をつけて食べる。

田植えを終えた農民が
農作業を無事に終えたことを田の神様に感謝し、 お供え物をして共に食したことが由来とされている。 

近畿地方の一部地域では
蛸を食べる習慣があり、
近畿地方各地の小売店が盛んに
販売促進活動を展開している。

2017年より、
日本コナモン協会では、
たこ焼きをはじめタコのお好み焼・焼きそば
、唐揚、タコ天うどんなどを促進する
「蛸半夏生キャンペーン」を行っている。 

讃岐の農村ではうどんを食べる習慣があり、
1980年に香川県製麺事業協同組合が
7月2日を「うどんの日」に制定している。

福井県大野市では
江戸時代に大野藩藩主が
この時期に農民に焼き鯖を振舞ったという逸話があり、
現在も大野市を中心とした地域では
半夏生に焼き鯖を食べる。

群馬県の一地方では、
ネギ畑に入る事を禁忌とする風習がある。

長野県小川村では、芋汁を食べる。

永平寺では、
大布薩講式(大布薩会を修行して、
常日頃の行李を顧み、懺悔する日)が行われる。

半夏生(はんげしょう)

2021/07/01

びわ湖の日

7月1日
木曜日

びわ湖の日

1980年(昭和55年)7月1日施行の
「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例
(琵琶湖条例)」1周年を記念し、
1981年(昭和56年)に決定。

1996年(平成4年)7月1日施行の
「滋賀県環境基本条例」で正式に定められ、
1997年(平成5年)から実施。

今年は制定から
40周年に当たるようです。

近畿の水瓶

びわ湖を大切にしましょう❗

びわ湖の日

2021/06/30

弘元の乱(鎌倉の戦い)

6月30日
水曜日

元弘の乱
(鎌倉の戦い)

1333年6月30日
(元弘3年/正慶2年5月18日)

元弘の乱

鎌倉幕府軍と
新田義貞率いる反幕府軍の合戦・鎌倉の戦いが始まる。

元弘の乱(げんこうのらん)は、
鎌倉時代最末期、
元徳3年4月29日(1331年6月5日)から
元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、
鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、
幕府及び北条高時を当主とする
北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

ただし、
元弘3年/正慶2年(1333年)5~6月中の
どの出来事をもって終期とするかは諸説ある
(→始期・終期)。

5月8日、
新田義貞が上野国生品明神で挙兵した。

新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、
利根川を越えて南進した。

新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、
鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた
足利氏の高氏(尊氏)の嫡子
千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、
義貞の軍勢は勢いを増し、
新田軍は数万規模に膨れ上がったと伝わる。

幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、
御家人らの離反も相次ぎ、
小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで敗退し、
幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。

新田軍は
極楽寺坂、巨福呂坂、
そして義貞と弟脇屋義助は化粧坂の三方から
鎌倉を攻撃した。

しかし天然の要塞となっていた
鎌倉の切通しの守りは固く、
極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。

戦いは一旦は膠着し、
新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、
新田義貞が海岸線(稲村ヶ崎)から鎌倉へ突入した。

執権北条守時(第16代執権)や
北条基時(第13代執権)ら幕府要人が
戦死・自害した市街戦ののち、
生き残った得宗家当主北条高時(第14代執権)や
北条貞顕(第15代執権)ら
幕府の中枢の諸人総計800余人は
5月22日、
北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した
(東勝寺合戦)。

弘元の乱(鎌倉の戦い)