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2020/09/25

藤ノ木古墳記念日

9月25日
金曜日

藤ノ木古墳記念日

1985年(昭和60年)9月25日

奈良県斑鳩町の
藤ノ木古墳の石室等が発掘されたことに由来。


藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は
奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳。

国の史跡に指定されている。

「藤ノ木」の名称は所在地の字名に由来するが、
法隆寺関係の古文書・古記録によれば、
かつては「ミササキ」「陵山」(みささぎやま)
などと呼ばれていた。

玄室内から大量に出土した
土師器、須恵器の年代から古墳時代後期、
6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。

この時期に
畿内では前方後円墳の造営が終わりに近づいていた。

古墳は
法隆寺西院伽藍の西方約350メートルに位置する。

現在は周辺が公園として整備され、
説明板なども多数設置されており、
法隆寺周辺の観光スポットとなっている。

また、
古墳から南へ200メートルほど行くと、
ガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、
主な出土品のレプリカが展示されている。

奈良県立橿原考古学研究所では
出土した馬具を3Dプリンターで復元し
一部は一般でも触れるようにしている。

発掘調査結果から、
径約50メートル、高さ約9メートルの
円墳であるとされている。

ただし、
現状は周りの水田や建物により
少しずつ削り取られていて、
高さ約7・6メートル、最大径約40メートルである。

大和での埴輪の設置は
6世紀前半で終わったと考えられていたが、
墳丘裾には円筒埴輪が並べられていて、
従来の見解を訂正することになった。

副葬品が
金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるから
この当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではないが、
貴金属を用いたきらびやかな副葬品が多いことから
強大な権力を持った人物であったと推測されている。

南側の人物は、
左手首にガラス製ナツメ玉10個、
両足に濃い青色のガラス玉各9個を装身具にしていた。

前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や
白石太一郎(奈良大学教授)は、
2人の被葬者が『日本書紀』が記す
587年6月の暗殺時期と一致することなどから、
聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された
穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる
宅部皇子の可能性が高いと論じている。

一方、
井沢元彦や高田良信(法隆寺長老)は
副葬品や埋葬の様子から
「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に
同母弟でこれもまた蘇我馬子が東漢駒に暗殺させた
第32代崇峻天皇が合葬された」との説を主張した。

骨の残りが悪く骨盤が残っていない南側被葬者について、1988年から90年にかけて
内視鏡による石棺内調査や発掘人骨の検査・分析を
担当した、骨考古学者の片山一道・京都大学名誉教授は、僅かに残った「距骨」(足首の骨)と
「踵骨(しょうこつ)」(かかとの骨)に基づいて、
1993年『第2次・第3次調査報告書』で
被葬者について1人は男性、南側の1人も
男性の確率が極めて高いと指摘した。

考古学者の間壁葭子・神戸女子大学名誉教授は、
古墳の規模と合葬の関係で、
男性2人同時埋葬は被葬者にとり誇るべきものではなく、よほどの緊急のことが起きたのではと、
疑問を述べている。

考古学者で古墳時代の玉類の研究者の
玉城一枝・奈良芸術短期大学講師は
2009年手首や両足の装身具から、
人物埴輪の装飾と
『古事記』と『日本書紀』の記述を手掛かりに、
手玉や足玉は「これらは女性の装身具」だと
「藤ノ木古墳男女合葬説」を唱えた。

それに対し片山教授は
「形質人類学的に考えれば、
9割以上の確率で南側被葬者は男」と反論した。

藤ノ木古墳記念日

2020/09/24

自転車屋の生き物歳時記 オオスカシバ

9月24日
木曜日

自転車屋の生き物歳時記

オオスカシバ

昨日の夕方
お店の戸を開けると
大きめの虫が入ってきた。

よく見ると
オオスカシバだった。

オオスカシバ(大透翅、学名:Cephonodes hylas)は、
チョウ目スズメガ科の昆虫。

ガの一種。

和名のとおり、翅が透明なガで、
夏の日中によく活動する。

スカシバという名がついているが、
スカシバガの仲間ではない。

成虫の前翅長は3cmほど。

体の背中側は黄緑色で、腹側は白い。

腹部の中ほどに赤い横帯模様があり、
その前後に黒い帯模様もある。

また、腹部先端の左右には黒い毛の束がある。

和名のとおり翅は透明で、
鱗粉がなく、黒い翅脈が走るのが大きな特徴である。

羽化した直後には灰白色の鱗粉が翅をおおっているが、
羽ばたくと鱗粉がすぐに脱落し、
透明な翅になってしまう。

この翅の表面には顕微鏡的な微細な顆粒が密生しており、光学的な効果によって、
通常のチョウやガの鱗粉を除いた翅よりも、
透明度を増していることが知られている。

翅脈は枝分かれせず、
根もとから後方に緩い曲線を描きながら伸びる。

成虫は年に1~2回、夏に発生する。

スズメガの多くは夜に活動するが、
オオスカシバは昼に活動するので人の目につきやすい。

様々な花を訪れ、ホバリングしながら蜜を吸う。

ただし、オオスカシバの口吻は2cmほどで、
それ以上深い構造をもつ花からは
蜜を吸うことができない。

羽音を立てながら花にやってくる上、
透明な翅と胴の模様から
大きなハチに間違われることもあり、
ベイツ型擬態の例として紹介されることも多い。

幼虫はクチナシを食草としていて、
都市部でも見る機会が多い。

食草のクチナシはあまり大きい木ではないので、
幼虫の数によっては葉が食べられて
丸坊主になってしまうこともある。

成長した幼虫は地表に降り、
落ち葉などをつづって荒い繭を作り、蛹になる。

冬は蛹で越冬する。

日本では本州以南に分布し、
日本以外でもインド、スリランカ、東南アジア、
中国まで広く分布する。

自転車屋の生き物歳時記  オオスカシバ

2020/09/24

足利尊氏 征夷大将軍

9月24日
木曜日

足利尊氏

1338年9月24日
(建武5年/延元3年8月11日)

足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられる。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、
鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の武将。

鎌倉幕府の御家人 。

足利貞氏の次男。

室町幕府初代征夷大将軍
(在職:1338年~1358年)、足利将軍家の祖。

姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。

延元3年/暦応元年(1338年)、
尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、
室町幕府が名実ともに成立した。

翌年、
後醍醐天皇が吉野で崩御すると、
尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。

造営費を支弁するため、
元へ天龍寺船が派遣されている。

さらに諸国に安国寺と利生塔の建立を命じた。

南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、
北畠顕家、新田義貞、
楠木正成の遺児正行などが次々に戦死し、
小田治久、結城親朝は南朝を離反して幕府に従ったほか、

正平3年/貞和4年(1348年)には
高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの
戦果をあげている。

足利尊氏  征夷大将軍