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2020/10/01

日本茶の日

10月1日
木曜日

日本茶の日

伊藤園が制定。

天正15年旧暦10月1日
(1587年11月1日)

豊臣秀吉が北野大茶湯を催したことにちなむ。

他に

衣替え

日本酒の日
醤油の日
コーヒーの日

土地の日
メガネの日
印章の日
デザインの日
テクタイの日

展望の日
補助犬の日
福祉用具の日
浄化槽の日
都民の日 など

多数の記念日になっています。

日本茶の日

2020/09/30

自転車屋の生き物歳時記 ツヅレサセコオロギ

9月30日
水曜日

自転車屋の生き物歳時記

ツヅレサセコオロギ

夜のウォーキングをしていると
コオロギの鳴き声を
よく耳にするようになってきた。

耳を傾けると
フィフィフィフィと聞こえる。
もっとも一般的な
ツヅレサセコオロギですな。

ツヅレサセコオロギ
(綴刺蟋蟀、学名:Velarifictorus micado)は、
バッタ目コオロギ科のコオロギ。

単にコオロギという別名を持つ。

日本では
北海道から九州、対馬、甑島列島(下甑島)、
種子島に分布する。

海外では
中国にも分布しているほか、
北アメリカにも帰化している。

体長13~22mm。

農耕地、庭、草地に生息し、
成虫は8~11月にかけて出現する。

雑食。

家屋内に入ってくることも多い。

「ギィギィギィ」または「リィリィリィ」という
深みのある声で鳴き、気温が下がると速度が落ちる。

一見すると奇妙な名前であるが、
これは「綴れ刺せ蟋蟀」の意である。

これは、
かつてコオロギの鳴き声を
「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、
冬に向かって衣類の手入れをせよとの
意にとったことに由来する。

自転車屋の生き物歳時記  ツヅレサセコオロギ

2020/09/30

比叡山延暦寺焼き討ち

9月30日
水曜日

比叡山延暦寺焼き討ち

1571年9月30日
(元亀2年9月12日)

織田信長が延暦寺を焼き討ち。

比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、
元亀2年9月12日(1571年9月30日)に
現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦い。

この戦いで織田信長は
僧侶、学僧、上人、児童の首を
ことごとく刎ねたと言われている。

またこの戦いは
ルイス・フロイスの書簡にも記載されている。

一方、近年の発掘調査から、
施設の多くはこれ以前に
廃絶していた可能性が指摘されている。

信長は
戦後処理を明智光秀に任せ、
翌13日午前9時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて
比叡山を出立、上洛していった。

その後
三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していく。

延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され
明智光秀・佐久間信盛・中川重政
・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。

この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、
各々与力らをこの地域に派遣して治めることになる。

特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、光秀は坂本城を築城することになる。

一方、
延暦寺側では正覚院豪盛らが逃げ切ることができ、
甲斐の武田信玄に庇護を求めた。

信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てたが、
元亀4年(1573年)に病死。

実現をみるに至らなかった。

天正7年(1579年)6月の日吉大社の記録には、
正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、
信長によって綸旨が押さえられ、
再興の動きは停止されてしまったとある。

その後
本能寺の変で信長は倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。

その後
羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、
簡単には許されなかった。

山門復興こそ簡単には許さなかったが、
詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、
それより陣営の出入りを許され、
軍政や政務について相談し
徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。

そして
小牧・長久手の戦いで出軍している秀吉に
犬山城で度重なる要請を行い、
ついに天正12年(1584年)5月1日、
僧兵を置かないことを条件に
正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して
山門再興判物が発せられ、
造営費用として青銅1万貫が寄進された。

比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。

比叡山延暦寺焼き討ち