2021/07/16
磐井の乱(いわいのらん)
7月16日
金曜日
磐井の乱
527年7月16日
(継体天皇21年6月3日)
近江毛野が軍を率いて
新羅に攻められた任那の失地回復に向かう
(磐井の乱の始まり)。
磐井の乱(いわいのらん)は、
朝鮮半島南部へ出兵しようとした
近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を
筑紫君磐井(『日本書紀』は
筑紫国造だったとする)がはばみ、
翌528年(継体22年)11月、
物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、
または王権間の戦争。
528年11月11日
磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、
筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。
日本書紀によると、
このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、
磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ
(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)
と記されている。
同年12月、
磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、
糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉を
ヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。
乱後の529年3月、
ヤマト王権(倭国)は再び
近江毛野を任那の安羅へ派遣し、
新羅との領土交渉を行わせている。
『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに
磐井の墓に関する記事が残されている。
なお『古事記』では
袁本杼命(継体天皇)の没年を
丁未4月9日(527年5月26日?)としており、
筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、
天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して
石井を殺害させた、と簡潔に記している。
『国造本紀』には
磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。