2021/07/25
焼肉バル きんちゃんち せんべろセット他
7月25日
日曜日
天神祭
焼肉バル
きんちゃんち
せんべろセット
ハラミ
アカセン
生ビール
ハッスルハイボール3杯
(亜鉛・マカ入り)
2021/07/25
天神祭
7月25日
日曜日
天神祭
天神祭(てんじんまつり、てんじんさい)は、
日本各地の天満宮(天神社)で催される祭り。
祭神の菅原道真の命日にちなんだ縁日で、
25日前後に行われる。
一年のうち1月の初天神祭など、
ある月に盛大に行われることがある。
各神社で行われる天神祭の中では、
大阪天満宮を中心として
大阪市で行われる天神祭が有名である。
以下より大阪天神祭のことについて記述する。
日本三大祭
(他は、京都の祇園祭、東京の神田祭)の一つ。
また、
生國魂神社の生國魂祭、
住吉大社の住吉祭と共に大阪三大夏祭りの一つ。
期間は
6月下旬吉日 - 7月25日の約1か月間に亘り
諸行事が行われる。
特に、25日の本宮の夜は、
大川(旧淀川)に多くの船が行き交う
船渡御(ふなとぎょ)が行われ、奉納花火があがる。
大川に映る篝火や提灯灯り、
花火などの華麗な姿より火と水の祭典とも呼ばれている。
他に
鉾流神事(ほこながししんじ)、
陸渡御(りくとぎょ)などの神事が行われる。
24日宵宮、25日本宮。
去年に引き続き
今年も残念ながら
コロナによる自粛で
最低限の神事だけが行われ
船渡御や陸渡御や花火などは行われません。
2021/07/24
壬申の乱(じんしんのらん)
7月24日
土曜日
壬申の乱
(じんしんのらん)
672年7月24日
(天武天皇元年/弘文天皇元年6月24日)
大海人皇子(後の天武天皇)が
弘文天皇を討つ為に吉野を出発。
壬申の乱の始まり。
12月3日(672年1月7日)
近江宮の近隣山科において
天智天皇が46歳で崩御した。
(扶桑略記などでは四国の山中で崩御され
玉体は近江宮に戻されたとある。)
大友皇子が跡を継ぐが、
年齢はまだ24歳に過ぎなかった。
大海人皇子は
天武天皇元年6月24日(7月24日)に
吉野を出立した。
まず、名張に入り駅家を焼いたが、
名張郡司は出兵を拒否した。
大海人皇子は
美濃、伊勢、伊賀、熊野や
その他の豪族の信を得ることに成功した。
続いて伊賀に入り、
ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が
兵約500で参戦した。
そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で
長男の高市皇子の軍と合流した
(鈴鹿関で合流したとする説もある)。
さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、
美濃へ向かった。
美濃では大海人皇子の指示を受けて
多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。
これにより皇子は
東海道、東山道の諸国から兵を
動員することができるようになった。
美濃に入り、東国からの兵力を集めた
大海人皇子は7月2日(7月31日)に
軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。
近江朝廷の大友皇子側は
東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる
使者を派遣したが、
東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、
吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。
特に筑紫では、
筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に
出兵を断ったのだが、
大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、
断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、
栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、
暗殺できなかった。
それでも近江朝廷は、
近い諸国から兵力を集めることができた。
大和では大海人皇子が去ったあと、
近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、
大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。
吹負はこのあと西と北から来襲する
近江朝の軍と激戦を繰り広げた。
この方面では近江朝の方が優勢で、
吹負の軍はたびたび敗走したが、
吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。
やがて紀阿閉麻呂が指揮する
美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。
近江朝の軍は美濃にも向かったが、
指導部の足並みの乱れから前進が滞った。
大海人皇子方と近江方を区別するため
「金」という合言葉を用いた。
村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、
7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、
以後連戦連勝して箸墓での闘いでの勝利を経て
進撃を続けた。
7月22日(8月20日)に
瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で
近江朝廷軍が大敗すると、
翌7月23日(8月21日)に
大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。
美濃での戦いの前に、高市郡に進軍の際、
「高市社の事代主と身狭社に居る生霊神」が神懸り
「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言いそうすせれば大海人皇子を護ると神託をなした。
翌天武天皇2年(673年)2月
大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。
近江朝廷が滅び、
再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に
移されることになった。
また論功行賞と秩序回復のため、
新たな制度の構築、すなわち服制の改定、
八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。
天武天皇は
天智天皇よりもさらに中央集権制を
進めていったのである。