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2020/10/09

土偶の日

10月9日
金曜日

土偶の日

楽しみながら
考古学に親しむをコンセプトに活動する
「土偶の日運営委員会」が制定。

運営する
土偶と縄文のポータルサイト「どぐぽた。」などを通じ、土偶に限らず
広く縄文時代の文化について
多くの人にその魅力を知ってもらうのが目的。

日付は10と9で
「土(ど=10)偶(ぐう=9)」と読む語呂合わせから。

他に

トラックの日
道具の日
東急の日
金券の日

塾の日
熟睡の日
熟成肉の日
熟成烏龍茶の日

トクホの日
アメリカドッグの日
散歩の日
ハンドバッグの日

マカロンの日
サイコロキャラメルの日
仙台牛の日
糖尿病とこころの日
秋の高山祭 など

多数の記念日に指定されています❗

土偶の日

2020/10/08

日野富子

10月8日
木曜日

日野富子

1455年10月8日
(康正元年8月27日)

日野富子が足利義政の正室になる。

日野 富子(ひの とみこ)
永享12年(1440年)
~明応5年5月20日(1496年6月30日))は、
室町時代後期から戦国時代前期の女性。

室町幕府8代将軍・足利義政の正室。

父は蔵人右少弁・日野重政、
母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。

兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、
資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。

9代将軍・足利義尚の母。

応仁の乱

富子は寛正3年(1462年)と
翌4年(1463年)に相次いで女子を産むが、
男子を産むことは出来なかった。

寛正5年(1464年)に
義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、
名を足利義視と改めさせ
細川勝元を後見に将軍後継者とした。

しかし翌寛正6年(1465年)に
富子は義尚を出産、
富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、
義尚の後見である山名宗全や
実家である日野家が義視と対立した。

これに幕府の実力者である
勝元と宗全の対立や斯波氏、
畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、
応仁の乱が勃発した。

富子は
戦いの全時期を通じて
細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、
東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、
米の投機も行うなどして
一時は現在の価値にして60億円もの
資産があったといわれる。

文明3年(1471年)頃には
室町亭(京都市上京区)に避難していた
後土御門天皇との密通の噂が広まった。

当時後土御門天皇が
富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、
そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。

文明5年(1473年)に
山名宗全、細川勝元が死去し、
義政が隠居して
義尚が元服して9代将軍に就任すると、
兄の日野勝光が新将軍代となった。

義政は完全に政治への興味を失い、
文明7年(1475年)には
小河御所(上京区堀川)を建設して1人で移った。

文明8年(1476年)に勝光が没すると、
富子が実質的な幕府の指導者となった。

「御台一天御計い」するといわれた
富子に八朔の進物を届ける人々の行列は
1、2町にも達した。

11月に
室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。

しかし、
文明13年(1481年)になって
義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった
(その後長らく義政とは別居)。

文明9年(1477年)に
ようやく西軍の軍は引き上げ、
京都における戦乱は終止符を打ったが、
この翌日、
富子は伝奏・広橋兼顕に
「土御門内裏が炎上しなかったのは、
西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という
趣旨の発言をしている。

義尚は
成長すると富子を疎んじ始め、
文明15年(1483年)には
富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色に溺れた。

このため富子は一時権力を失った。

しかし延徳元年(1489年)に
六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で
遠征中の義尚が25歳で没した。

息子の急死に富子は意気消沈したが、
義視と自分の妹の間に生まれた
足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう
義政と協議し、
同年4月に合意が行われた。

延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、
義材が10代将軍となった。

しかし
後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、
富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。

翌年の義視の死後、
親政を開始した義材もまた富子と敵対した。

明応2年(1493年)、
義材が河内に出征している間に
富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子
・義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。

その3年後、
明応5年(1496年)に57歳で死去した。

日野富子

2020/10/07

第一次天正伊賀の乱

10月7日
水曜日

第一次天正伊賀の乱

1579年10月7日
(天正6年9月19日)

織田信雄が伊賀国に侵攻するも、
伊賀国人衆に敗退。
(第一次天正伊賀の乱)

北畠家の養子となっていた
織田信長の次男織田信雄は、
天正4年(1576年)に
北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し
伊勢国を掌握すると、
次は伊賀国の領国化を狙っていた。

1578年(天正6年)2月、
伊賀国の郷士の日奈知城主
・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、
伊賀国への手引きを申し出た。

信雄は同年3月に
滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した
丸山城の修築を命じた。

これを知った伊賀国郷士衆は驚き、
丸山城の西にある天童山に密偵を送り、
築城の様子をうかがった。

丸山城は3層の天守や天守台は石垣で固められ、
また二の丸への登城道は9回折れているなど、
規模壮大な城であったと記されている。

すぐさま
伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、
「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。

丸山城周辺の
神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部
、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、
同年10月25日に集結した忍者たちが
総攻撃を開始した。

不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、
昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。

『伊乱記』には、
「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。

しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。

翌天正7年(1579年)9月16日、
信雄は信長に相談もせず
独断で8000の兵を率いて
伊賀国に3方から侵攻したが、
伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。

伊賀衆の
夜襲や松明を用いた撹乱作戦や
地形を活かした奇襲などで、
2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。

信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる
(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、
侵攻は失敗に終わった。

信雄が無断で伊賀に侵攻し、
さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、
信雄を叱責した。

信長が信雄に
「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。

また、この信雄の敗戦を受け、
信長は忍者に対し警戒心を抱き、
後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。

しかし
信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、
伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。

第一次天正伊賀の乱