2021/09/17
岐阜城
9月17日
金曜日
岐阜城
1567年9月17日
(永禄10年8月15日)
織田信長が
斎藤龍興の居城だった稲葉山城に移り
岐阜城と改称。
岐阜城(ぎふじょう)は、
美濃国井之口の山(稲葉山
(現・岐阜県岐阜市の金華山))にあった城(山城跡)。
もとは稲葉山城と言い、
鎌倉時代以来の歴史があり、
本格的に整備されたのは
戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられ、
織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより
斎藤龍興から奪取し、
本拠地を小牧山から当城へと移し、
その縄張りを破却して
新たに造営したものが岐阜城である。
『信長公記』に
「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。
井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」
と記載されており、
ここから天下布武、天下統一を
おこなうという意味をこめて、
信長が山頂にある城や麓にある町などを
「井口」から「岐阜」へと改名したことにより
「岐阜城」と呼ばれることになった。
山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつも、
それらの間を結ぶ登城路、
さらに山中の要所に配された砦もあり、
なにより山そのものが天然の要害として機能していた。
麓に置かれた城主の館は、
山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあり、
地形は斎藤氏 三代の頃に造られ、
信長が大規模に改修をし、
大きな池の南北に建物が2つあり
大きな庭園があったことが発掘調査で分かっており、
有力者なども招かれたらしく、
ルイス・フロイスが訪れた記録もあり、
関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていたという。
当城の城主は、
織田信長の後は、織田信忠、(信長亡き後に)織田信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信らであるが、
秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、
関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で
東軍側の池田輝政や福島正則らに攻められ落城、
翌1601年(慶長6年)徳川家康によってに
当城は廃城とされた。
近年の調査により
この城の価値が見直されるようになり、
2011年(平成23年)に
岐阜城跡(ぎふじょうあと)つまり山頂の城の城跡 および山麓の織田信長公居館跡を含めた
金華山一帯の約209ヘクタール(2,091,602.74平方メートル)が国の史跡に指定された。
その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。
なお
現在山頂にある建造物は、
1956年(昭和31年)に
(当時なりに想像し往年の天守を模したつもりで) 鉄筋コンクリートで建てた模擬天守である。
山麓付近では
1984年ころから発掘調査が行われるようになり、
現在も発掘が進行中である。
山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は、
槻谷(けやきだに)を流れる
谷川の両側に段々地形が造られ、
建物や庭園を配したものとなっている。