2021/09/20
焼肉のぶちゃん 牛鍋定食
9月20日
月曜日
敬老の日
新長田
焼肉のぶちゃん
牛鍋定食
アサヒドライゼロ
緊急事態宣言の為
アルコール提供停止
ノンアルコール😞
2021/09/20
敬老の日
9月20日
月曜日
敬老の日
敬老の日(けいろうのひ)は、
日本の国民の祝日の一つである。
日付は9月の第3月曜日。
2002年(平成14年)までは
毎年9月15日を敬老の日としていたが、
2003年(平成15年)から現行の規定となっている。
敬老の日は、
国民の祝日に関する法律
(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、
「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、
長寿を祝う」ことを趣旨としている。
同様の趣旨の記念日として、
老人福祉法によって定められた、
老人の日(9月15日)、
老人週間(9月15日より1週間)がある。
多可町が発祥の地
兵庫県多可郡野間谷村
(後に八千代町を経て現在の多可町八千代区)で、
1947年(昭和22年)9月15日に
村主催の「敬老会」を開催したのが
「敬老の日」の始まりであるとされる。
これは、野間谷村の村長であった
門脇政夫(1911年 - 2010年)が
「老人を大切にし、
年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から
開いたもので9月15日という日取りは、
農閑期にあたり気候も良い
9月中旬ということで決められた。
昭和22年当時は戦後の混乱期に当たり、
子供を戦場へ送った親たちも多く、
精神的に疲労の極にあった。
門脇は、
そうした親らに報いるべく「養老の滝」の伝説にちなみ、
9月15日を「としよりの日」とし、
55歳以上の人を対象に敬老会を開催した。
昭和22年当時は
55歳で年寄りやったんですね‼️
2021/09/20
織田信長が佐久間盛を追放
9月20日
月曜日
敬老の日
織田信長が
佐久間信盛を追放
1580年9月20日
(天正8年8月12日)
織田信長、
佐久間信盛に19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ追放。
佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
織田氏の宿老。
平手政秀自害から
主君の織田信長による折檻状で
織田氏を離れるまでの約30年間、
織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。
尾張佐久間氏の当主。
通称は出羽介、右衛門尉。
子に信栄・信実。
従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政
・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。
折檻状の一部を現代語訳にすると
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
要するに
お前は30年も
この信長に仕えていて
何の働きもしていないし
むしろ足を引っ張っただけなので
お前のような家臣は要らん‼️
とっとと出ていけ‼️と言う事ですね。