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2020/12/15

赤壁の戦い

12月15日
火曜日

赤壁の戦い

208年12月15日
(建安13年11月20日)

孫権・劉備連合軍が曹操の船団を打ち破る。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい、簡体字:赤壁之战、
繁体字:赤壁之戰)は、
中国後漢末期の208年、
長江の赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)
において起こった
曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。

『三国志』呉書魯粛伝によると、
魯粛から孫権と同盟を結び
曹操と対抗するよう説かれた劉備は、
諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。

一方、
『三国志』蜀書諸葛亮伝によると、
諸葛亮が孫権との同盟を献策し、
劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会した。

諸葛亮は曹操の兵が疲弊していること、
荊州の人間が心服していないことを挙げ、
関羽が指揮を執る精兵の水軍・劉琦が
指揮を執る江夏軍・孫権軍が協力すれば
必ずや曹操を破ることができると説き、
孫権は大いに喜んだ。

孫権は
周瑜・程普らが指揮する水陸二万の兵を派遣し、
劉備、周瑜らは併力して疫病に悩まされていた曹操軍を、赤壁・烏林で撃破して敗走させた。

『三国志』魏書武帝紀には、

「公(曹操)は赤壁に到着し、
劉備と戦うが、不利だった。
疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、
撤退した」と書かれている。

『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した。
劉備は曹操を追撃して、火を放ったが、
曹操に逃げられた」と書かれている。

『三国志』呉書周瑜伝には、
「赤壁において遭遇した曹操軍を劉備軍と共に逆撃した。この際、曹操軍には疫病が流行っていたため、
一戦を交えると敗走し、長江北岸へ引き上げた」
とある。

さらに黄蓋の建策による火計と偽降を仕掛け、
「曹操軍が油断した隙をついて
油をかけ薪を満載した火船を差し向け、
強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり大打撃を受け、岸辺の陣まで炎は及んだ。

曹操は後退し烏林に陣を張り、
周瑜らも長江を挟んで対峙した」とある。

『三国志』呉書周瑜伝の注に引く『江表伝』には、
「時に東南の風が激しく吹き荒れ
曹操軍の船を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼させた後に周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、
曹操軍は潰走した」と書かれている。

『三国志』蜀書先主伝には、
「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、
赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」
と書かれている。

『三国志』呉書呉主伝には、
「周瑜・程普を左右の督とし、各一万の兵を領させ、
劉備と共に進軍し赤壁で曹操軍を大いに破った」とある。

『後漢書』献帝紀には、
「曹操は水軍で孫権を討伐したが、
烏林・赤壁で孫権の部将周瑜に敗れた」とある。

『後漢紀』には、
「曹操は赤壁で周瑜と交戦し、周瑜に大敗した」とある。

『太平御覧』が引用する『英雄記』には、
「曹操は赤壁から長江南岸へ渡ろうとしたが、
船がなかったため筏を作って漢水沿いに
川をくだって浦口に至った。

曹操がすぐには渡ろうとしなかったため、
周瑜は夜中に火を放たせ、筏に火燃えうつると、
すぐに船を返して逃げかえった。

数千艘の筏を燃やされた曹操は
そのため夜中に逃走することになった」と書かれている。

曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。

疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が死亡した。

『三国志』呉書呉主伝には、
曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなった
と書かれている。

周瑜・劉備らは水陸並行して更に追撃して、
南郡まで兵を進めた。

曹操は慣れない江南の地で
疫病の流行に悩まされたこともあり、
江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、
自らは北方に撤退した。

赤壁の戦いの前後に孫権は合肥を攻撃したが、
曹操は張喜に千人の兵と汝南で集めた兵を率いさせて
合肥の救援に向かわせた。

そして曹操配下の蔣済が流した、
「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という
偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。

いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、
孫盛は「赤壁の戦いで劉備が曹操を破った後、
孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。

赤壁の戦い

2020/12/14

自転車屋の生き物歳時記 ウミタナゴ

12月14日
月曜日

自転車屋の生き物歳時記

ウミタナゴ

昨日の釣りでバラシた魚です。


ウミタナゴ(海鱮、学名:Ditrema temmincki temmincki)は、スズキ目ウミタナゴ科に分類される魚類の一種。

名前は、
タナゴと体形が似ているため名づけられた。

2007年に、
従来1種とされていたウミタナゴから
青みがかっている型を亜種として
マタナゴ Ditrema temminkii pacificum に、
赤みがかっている型を別種として
アカタナゴ Ditrema jordani に分けられた。

種小名の「temmincki」は、
日本産生物の学名を多く命名した
コンラート・ヤコブ・テミンクへの献名である。

体長25cm程度。

北海道中部以南の日本各地の沿岸に生息する。

胎生で春から初夏にかけて子供を産む。

動物性の食性でゴカイ、甲殻類等を食べる。

冬の防波堤での
玉ウキ釣りの対象魚として親しまれている。

漁港に係留してある
漁船の下などに群れていることが多く、
場所によっては魚影を見ることが出来る。

アオイソメやオキアミ等を餌に使って釣る。

特に難しい仕掛けはいらないが、
餌を吸ったり吐いたりを繰り返すため、
遅あわせでややコツがいるとされる。

胎生で増えることから、
安産の「おまじない」として食べる地方もある一方、
島根地方では
ウミタナゴが子供を生む様を
逆子が生まれてくるのに重ねて
縁起が悪いともされている。

身は淡白な白身で小骨が多い。

塩焼きにされることが多いが、
素揚げや煮物、刺身やなめろうにされることもある。

自転車屋の生き物歳時記  ウミタナゴ

2020/12/14

討ち入りの日/忠臣蔵の日

12月14日
月曜日

討ち入りの日
/忠臣蔵討ち入りの日
/四十七士討ち入りの日
/忠臣蔵の日

元禄15年12月14日
(1703年1月30日)に、
赤穂浪士(四十七士)が
吉良上野介(吉良義央)邸討ち入り
(赤穂事件)を行った。

これにちなんで、
赤穂市では赤穂義士祭、
吉良邸跡である両国・本所松坂町公園と
赤穂浪士の墓所泉岳寺において義士祭が行われる。

本所松坂町公園では、
名君であったとされる吉良をしのんで
吉良祭も同時に行われる。

今の暦では
1月30日ですからね。

一年で最も寒い時期ですよ。

江戸の街に
雪が降り積もったのも分かりますね。

討ち入りの日/忠臣蔵の日