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2021/11/06

会津戦争が終結

11月6日
土曜日

会津戦争が終結

1868年11月6日
(明治元年9月22日)

戊辰戦争

会津藩が降伏し、会津戦争が終結。

会津戦争
(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))

戊辰戦争の局面の一つであり、
会津藩の処遇をめぐって、
薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、
会津藩およびこれを支援する
奥羽越列藩同盟などの
旧幕府軍との間で行われた戦いである。

現在の福島県会津地方が主戦場となった。

二本松領を占領した新政府軍では、
次の攻撃目標に関して意見が分かれた。

大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、
板垣退助と伊地知正治は、会津への攻撃を主張した。

板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。

二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。

8月21日(10月6日)、
新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、
40キロメートル余りを急進して
8月23日(10月8日)朝に若松城下に突入した。

新政府軍の電撃的な侵攻の前に、
各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、
予備兵力であった
白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。

このとき、
西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした
母や妻子など一族21人が自刃し、
城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した
白虎隊士中二番隊の隊士の一部が
飯盛山で自刃した。

会津軍は若松城に篭城して抵抗し、
佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも
城外での遊撃戦を続け、
新政府軍も若松城に砲撃を加えた。

しかし、
9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする
同盟諸藩の降伏が相次いだ。

孤立した会津藩は
明治元年9月22日(11月6日)、
新政府軍に降伏した。

同盟諸藩で最後まで抵抗した
庄内藩が降伏したのはその2日後である。

会津攻略戦では、
在府の大村益次郎は周囲の敵対勢力を
徐々に陥落させていく長期戦を指示したが、
戦地の板垣退助、伊地知正治らは、
これに反対し一気呵成に
敵本陣を攻める短期決戦を提案。

この時、
会津、庄内両藩は
蝦夷地をプロイセンに売却して資金を得ようしていた。

板垣らが会津を攻め落した為に、
ビスマルクから返書が阻止されて
蝦夷地売却の話が反故となったが、
長期戦となっておれば、
日本の国境線は大いに変わっていたと言われる。

そのため
特に会津攻略戦での采配は
「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられた。

会津戦争が終結

2021/11/05

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