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2021/12/05

12月のあぐろの湯

12月5日
日曜日

12月のあぐろの湯

偶数月は
散髪&お風呂&生ビール

5のつく日は
ポイント2つらしくて
ポイント貯まって
タオルを貰いました。

湯上がりの
本家さぬきや

生ビール大
揚げ出し豆腐

12月のあぐろの湯

2021/12/05

生類憐れみの令

12月5日
日曜日

生類憐みの令

1695年12月5日
(元禄8年10月29日)

徳川綱吉により
生類憐れみの令の一環として
中野に16万坪の犬小屋が作られ
同時に中野の住民が強制退去となる。

5代将軍・徳川綱吉は
犬公方(いぬくぼう)などと呼ばれ
後世からは悪名高いと言われる
生類憐みの令を敢行したが

本来の目的は
町に溢れた
捨て子や捨て犬を
手厚く保護するのが目的であり
それに付随して
むやみな殺生を禁じ
命の大切さや慈悲の心を
民衆に知らしめようとした物とも言われている。

そうであるとすれば
実は名将軍だったと言えますな❗

生類憐れみの令

2021/12/04

源義経追討

12月4日
土曜日

源義経追討

1185年12月4日
(文治元年11月11日)

後白河法王が
源頼朝に対して源義経追討の院宣を下す。

当時・源平合戦で平家を滅ぼし
一大功績のあった義経だが
兄・頼朝との仲が悪化していた。

理由としては
頼朝が源平合戦に使わせた
軍師・梶原景時の意見を無視して
戦に臨んだ事や
頼朝の許可なく身内の武士を成敗した事
範頼の所領の九州にも手を出した事
頼朝の許可なく朝廷から官位(検非違使)を受けた事など

頼朝は側近の大江広元より
守護・地頭を置き
地方の反乱を抑える事を進言され
義経追討の名目で
朝廷にこれを認めさせている。

義経は
頼朝の軍から逃れる為に
船団を組んで
九州に向かうも
攝津国大物浦(兵庫県尼崎市)で難破
その後・京都や吉野に潜伏するが
奥州藤原氏を頼って奥州にたどり着く

当時・関東以西を掌握していた
頼朝に対して脅威を感じていた
藤原秀衡は義経を将軍として
頼朝との対決姿勢を示したが
秀衡が病死し後を継いだ泰衡は
再三に及ぶ頼朝からの
義経捕縛命令に屈して義経の居場所を知らせる

藤原基衡の衣川の館に
十数騎の兵で潜伏していた
義経を頼朝軍は
500騎の兵で取り囲み
(衣川の戦い)
義経は自刃した(享年31)。

源義経追討