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2021/12/10

建武式目

12月10日
金曜日

建武式目

1336年12月10日
(建武3年/延元元年11月7日)

建武式目が制定される。

建武式目(けんむしきもく、建武式目条々)は、
建武3年11月7日(1336年12月10日)、
室町幕府の施政方針を示した式目である。

御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。

鎌倉幕府滅亡後に開始された
後醍醐天皇の建武の新政から
離反した足利尊氏は、
南北朝時代の1336年
(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に
湊川の戦いで
新田義貞・楠木正成らを破り京都へ入り、
施政方針を定めた建武式目を制定する。

尊氏は
後醍醐から三種の神器を接収して
光明天皇を即位させ、
2年後の1338年
(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)に
征夷大将軍に任命されて
正式に武家政権を成立させた。

鎌倉幕府の奉行人である
二階堂道昭(是円)・二階堂真恵兄弟、
藤原藤範、玄恵ら8人の答申の形で制定された。

武家の基本法である
御成敗式目に対して
建武式目は武家政権の施政方針を示すもので、
拘束力がある法令ではないとも、
御成敗式目の改廃をともなう法令ではないとも
いわれている。

全17条から成る。

尊氏は
政務を弟の足利直義に任せており、
式目の制定には直義の意思があったとも
指摘されている。

また、
太子信仰の風習から、
聖徳太子の制定した十七条憲法に影響されたとも
考えられている。

鎌倉幕府の「御成敗式目」と並び
戦国大名の分国法にも影響をあたえた。

構成は2項17条であり、
第1項に「鎌倉如元可為柳営歟、可為他所否事」という設問を提示し、
それに対し、政道のよしあしは
居所のよしあしによるのではなく
為政者のよしあしによるものであると述べ、
鎌倉幕府の得宗専制以前の
北条義時・北条泰時の施政を理想とし、
足利幕府(室町幕府)が
正統な後継者である事を示す。

第2項では、
政道の理想は、万人の愁いを休めることこそ
最も重要であるとして、
17条の条文において具体的方針を提示し、
地方行政官である守護職は
戦功よりも能力を重んじて任命することや、
徳政令に関わる法令が多くを占める。

また、南北朝時代の社会的風潮であった
「ばさら」を禁止している。

本法以降に出された追加の法令は
「建武以来追加」と称されるが、
これは建武式目の追加という意味ではなく、
建武年間以降に出された
御成敗式目の追加という意味だと
されることがある。

建武式目

2021/12/09

日本初のレコード

12月9日
木曜日

日本初のレコード

1911年(明治44年)12月9日

浪花節の
桃中軒雲右衛門が
日本初のレコードの吹き込みを行う。

桃中軒 雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん、1873年(明治6年)5月5日 -
1916年(大正5年 )11月7日)は、
明治から大正時代にかけての日本の浪曲師。

亭号は
沼津駅の駅弁屋である桃中軒に、
名は修行時代に兄弟分であった力士の
「天津風雲右衛門」に由来するとされる。

浪曲界の大看板で「浪聖」と謳われた。

日本初のレコード

2021/12/08

事納め

12月8日
水曜日

事納め

その年の農事など雑事をしまう日。
農事を始める「御事始め」は2月8日である。

事八日・コト八日(ことようか)は、
日本の年中行事。

八日節供、八日待(まち)、
八日ぞう、事始め/事納め、
お事始め/お事納め、八日吹き、八日行、
節供始め/節供納め、お薬師様、
恵比寿講などとも呼ばれるが、
民俗学上は「事八日」と総称される。

例外もあるが原則として、
2月8日と12月8日の年2回
またはいずれかに行われる、
2月8日と12月8日のどちらかを
「事始め」、他方を「事納め」と呼ぶことがある。

「事」を年間の祭事あるいは農作業と解釈し、
2月を事始め・12月を事納め
とするのが主流だが、
関東の一部では「事」を新年の祝い事と解釈し、
12が事始め・2月が事納めとなる。

行事の内容は地域差が大きい。

戦後徐々に行われなくなりつつある。

日本人は
末広がりの八が好きなので
8日にこだわったんでしょうね。

事納め