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2021/03/22

屋島の戦い

3月22日
月曜日

屋島の戦い

1185年3月22日
(元暦2年/寿永4年2月19日)

治承・寿永の乱
屋島の戦いがおこなわれ源氏方が勝利。

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、
平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日
(1185年3月22日)に
讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

2月18日午前2時、
暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、
船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、
義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、
僅か5艘150騎で出航を強行する。

同日午前6時に
義経の船団は暴風雨をつき
通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した。

これは
『吾妻鏡』が出発日または到着日を1日間違え、
実際には1日と4時間の航行時間だった
という見方が有力である。

勝浦に上陸した義経は
在地の武士近藤親家を味方につけ、
屋島の平氏は、
田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて
伊予国の河野通信討伐へ向かっており、
1000騎程しか残っておらず、
それも
阿波国、讃岐国各地の津(港)に
100騎、50騎と配しており、
屋島は手薄であるとの情報を手に入れ、
好機と判断した。

まず、
義経は平氏方の豪族
桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る。

その後、
徹夜で讃岐国へ進撃して
翌2月19日に屋島の対岸に至った。

この頃の屋島は独立した島になっていた
(江戸時代の新田開発により陸続きに近くなった。
ただ、今なお相引川によって隔てられている)。

干潮時には
騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。

寡兵であることを悟られないために、
義経は周辺の民家に火をかけて
大軍の襲来と見せかけ、
一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。

海上からの攻撃のみを予想していた
平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、
屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。

やがて、
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、
船を屋島・庵治半島の岸に寄せて
激しい矢戦を仕掛けてきた。

平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、
郎党の佐藤継信が義経の盾となり
平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。

継信の墓は
庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、
また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした
平教経の童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。 

夕刻になり休戦状態となると、
平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、
竿の先の扇の的を射よと挑発。

外せば源氏の名折れになると、
義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、
重忠は辞退し代りに
下野国の武士・那須十郎を推薦する。

十郎も傷が癒えずと辞退し、
弟の那須与一を推薦した。

与一はやむなくこれを引き受ける。

与一は海に馬を乗り入れると、
弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、
もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、
鏑矢を放った。

矢は見事に扇の柄を射抜き、
矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。

しばらく春風に一もみ二もみされ、
そしてさっと海に落ちた。

『平家物語』の名場面、「扇の的」である。

美しい夕日を後ろに、
赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、
沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、
陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。

これを見ていた平氏の武者、
年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、
白柄の長刀を持っている者が、
興に乗って扇のあった下で舞い始めた。

義経はこれも射るように命じ、
与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。

平家の船は静まり返り、
源氏は再び箙を叩いてどよめいた。

あるものは「あ、射た」といい、
あるものは「心無いことを」といった。

怒った平氏は再び攻めかかる。

激しい合戦の最中に
義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、
これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードは
この際のことである。

2月21日、
平氏軍は志度浦から上陸を試みるが、
義経は80騎を率いてこれを撃退した。

この時、
僅か15騎を率いた義経の郎党の
伊勢義盛が
田内成直の3000騎を降伏させたという話がある。

やがて、
渡邊津から出航した梶原景時が率いる
鎌倉方の大軍が迫り、平氏は彦島へ退いた。

屋島の陥落により、
平氏は四国における拠点を失った。

既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、
平氏は彦島に孤立してしまう。

義経は水軍を編成して、
最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨むことになる。

屋島の戦い

2021/03/21

兵庫消防団第六分団 3月の定期訓練

3月21日
日曜日

兵庫消防団第六分団
3月の定期訓練

浜山地区防災福祉コミュニティと
兵庫消防団第六分団の合同訓練

浜山小学校にて

私が
消防団に入団して
21年になりますが
浜山小学校での訓練は初めてでした。

私は
浜山地区の人間なので
浜山小学校で
やっと
念願の訓練が出来た事を
大変喜ばしく思います。

浜山地区の
防災福祉コミュニティの人たちは
防災意識が高い事は
今日の訓練で知る事が出来たので

これからも
機会があれば
毎年
1回でも2回でも
続けて行ければ良いなと思います。

兵庫消防団第六分団  3月の定期訓練

2021/03/20

自転車屋の生き物歳時記 ハシブトガラス

3月20日
土曜日
春分の日
お彼岸の中日

自転車屋の生き物歳時記

ハシブトガラス

ずいぶん暖かくなったせいか
カラスが
集団で鳴く声をよく耳にする。

この辺りで鳴いているのは
寸胴な姿のハシブトガラスだ。

阪神淡路大震災の時
1週間前から
神戸市内のカラスが
忽然と姿を消したと言われている。

奴らは本能的に
磁場の異変に気付き
危険を察知して避難していたのだろう。

自分は
カラスが鳴いているうちは
街は安全だと思っている。

地震学者より
ガラスの危険予知能力を信じる。

ハシブトガラス
(嘴太烏、学名:Corvus macrorhynchos)は、
スズメ目カラス科カラス属に分類される鳥類の一種。

日本で「カラス」といえば
本種かハシボソガラスを指すのが一般的である。

ユーラシア大陸東部(東洋区、旧北区東部)に分布する。

日本では留鳥として、
小笠原諸島を除き全国で、
低地から山地まで幅広く分布する。

全長56cm、翼開長100cm、
体重550-750gほどで、
全身が光沢のある黒色をしており、雌雄同色。

ハシボソガラスに似るが
やや大きく、嘴が太く上嘴が曲がっているところと、
額(嘴の上)が出っ張っているところで判別できる。

また、
ハシボソガラスよりも澄んだ「カー」という声で鳴き、
また、鳴く際は、体を水平にし、
鳴き声に合わせて尾を上下に振る
(ペア相手と居場所を確認し合うときのみ、
翼を上に上げ、パタパタ振りながら鳴く)。

なお、
突然変異で白い個体が出現することもあり、
これはアルビノまたは白変種と考えられる。

英名 "Jungle Crow" も示すように、
元来は森林に住むカラスであり、
現在も山間部など森林地帯に広く分布しているが、
近年日本では都市部において急速に分布を拡げた。

食性は雑食で、
昆虫や木の実、動物の死骸など、
あらゆるものを食べる。

特に脂質を好み、
石鹸や和蝋燭を食べることもある。

また、
雀などの小鳥やネズミ、昆虫、鳩や子猫、
蝙蝠などの生きた小動物を捕食することもある。

主に電柱や高木上など
高所から地上を見下ろして餌を探し、
餌を見つけると下りて行ってとり、
高所に戻って食べる。

鋭い嘴は、
つつくだけでなく咬む力にも優れており、
肉なども引きちぎって食べることができる。

生態が類似する
ハシボソガラスよりも肉食性が強い。

前述のとおり
油脂に富んだ物を好むため
マヨネーズの残りかすや切り落とされた
肉の獣脂を狙い生ゴミを漁ることも多い一方、
胡桃など硬い殻をもつ蒴果を割るために
車道に落とし轢かせるなど知恵を働かせることもある。

産卵期は4月頃で、
主に樹林内の大木に木の枝などを用いた巣を作り、
2〜5個の卵を産む。

抱卵日数は約20日で、メスのみが抱卵する。

雛への給餌は雌雄で行い、
雛は孵化してから約1か月で巣立つ。

その後約1か月は家族群で行動し、独立する。

若鳥は約3年間群れで行動し、
その後ペアで縄張りを構える。

夜間
人が立ち入る事の無いよく茂った森に
集団ねぐらをとる習性があり、
冬期には特に多数が集まる。

頭のいいカラスは、
雪を水の代わりに浴びる「雪浴び」や、
アリを羽毛になすりつけたり、
巣の上に伏せてアリにたからせる
「蟻浴(アリの持つ蟻酸によって、
ハジラミを退治している)」、
銭湯の煙を浴びる「煙浴」、
洗濯用洗剤などの粉洗剤を浴びる
「薬浴」など、
いろいろな入浴方法を実践している。

寿命は
飼育下では約20年、野生下では約10年とされる。

自転車屋の生き物歳時記  ハシブトガラス