ブログ

2021/05/02

八十八夜

5月2日
日曜日

八十八夜
緑茶の日

八十八夜
(はちじゅうはちや)は雑節のひとつで、
立春を起算日(第1日目)として
88日目(立春の87日後の日)にあたる。

もともと、太陰暦をベースとしている
日本の旧暦では暦日と季節が最高で半月もずれるため、 太陽暦をベースとした雑節として
起こり広まったものである。

21世紀初頭の現在では
平年なら5月2日、
閏年なら5月1日である。

数十年以上のスパンでは、
立春の変動により5月3日の年もある。

「八十八夜の別れ霜」
「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、
遅霜が発生する時期である。

一般に霜は八十八夜ごろまでといわれているが、
「九十九夜の泣き霜」という言葉もあり、
5月半ばごろまで泣いても泣ききれないほどの
大きな遅霜の被害が発生する地方もある。それ以上に、旧暦では暦日と季節が最悪で半月もずれることから、
農家に対して特に注意を喚起するために
この雑節が作られた。

八十八夜は日本独自の雑節である。

この日に摘んだ茶は上等なものとされ、
この日にお茶を飲むと長生きするともいわれている。

茶の産地である
埼玉県入間市狭山市・静岡県・京都府宇治市では、
新茶のサービス以外に
手もみ茶の実演や茶摘みの実演など、
一般の人々も参加するイベントが行われる。

今年は
5月になっても風雨が激しかったり
肌寒かったりしていますが
緑茶はちゃんと育っていますかね⁉️

八十八夜

2021/05/01

大塩平八郎の乱

5月1日
土曜日

大塩平八郎の乱

1837年5月1日
(天保8年3月27日)

大塩平八郎の乱: 大塩平八郎が自害。

大塩平八郎の乱
(おおしおへいはちろうのらん)は、
江戸時代の天保8年(1837年)に、
大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力
大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした
江戸幕府に対する反乱である。

大塩の乱とも言う。

前年の天保7年(1836年)までの
天保の大飢饉により、
各地で百姓一揆が多発していた。

大坂でも米不足が起こり、
大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある
大塩平八郎(この頃は養子の格之助に
家督を譲って隠居していた)は、
奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、
仕方なく自らの蔵書5万冊を全て売却し
(六百数十両になったといわれる)、
得た資金を持って救済に当たっていた。

しかしこれをも
奉行所は「売名行為」とみなしていた。

そのような世情であるにもかかわらず、
大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は
大坂の窮状を省みず、
豪商の北風家から購入した米を
新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

このような情勢の下、
利を求めてさらに
米の買い占めを図っていた豪商に対して
平八郎らの怒りも募り、
武装蜂起に備えて家財を売却し、
家族を離縁した上で、
大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。

一揆の際の制圧のためとして
私塾の師弟に軍事訓練を施し、
豪商らに対して天誅を加えるべしと
自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、
金1朱と交換できる施行札を
大坂市中と近在の村に配布し、
天満で火災が発生したなら駆けつけるよう
決起の檄文で参加を呼びかけた。

一方で、大坂町奉行所の不正、
役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、
これを江戸の幕閣に送った。

新任の西町奉行堀利堅が
東町奉行の跡部に挨拶に来る
2月19日を決起の日と決め、
同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。

大塩平八郎の乱

2021/04/30

緊急事態宣言 週末家飲み

4月30日
金曜日

緊急事態宣言の為
週末家飲み

アサヒスーパードライ350
角ハイボール濃い500

鶏皮の唐揚げ
高野豆腐
さばの水煮

〆の炭水化物

どん兵衛カレーうどん

緊急事態宣言  週末家飲み