2022/03/21
高松塚古墳
3月21日
月曜日
春分の日
高松塚古墳
1972年(昭和47年)3月21日
高松塚古墳で極彩色壁画が発見される。
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は
奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。
藤原京期(694年~710年)に
築造された終末期古墳で
直径23m(下段)及び18m(上段)
高さ5mの二段式の円墳である。
1972年に極彩色の壁画が
発見されたことで
一躍注目されるようになった。
2009年に
本来の形状に復元され
一般に公開されている。
極彩色壁画の発見は
千数百年も前の物が
あんなに美しい色合いで見つかるなんて
子供ながらに
感動したのを覚えていますな〜
2022/03/20
一ノ谷の戦い
3月20日
日曜日
一ノ谷の戦い
1184年3月20日
(元暦元年2月7日)
一ノ谷の戦い。
源義経らが
「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏に圧勝。
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、
平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日
(1184年3月20日)に
摂津国福原および須磨で行われた戦い。
治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。
日本史では
あまりにも有名な奇襲攻撃‼️
鵯越の逆落とし‼️
2022/03/19
ヨーロッパで一番の親日国 ポーランド
3月19日
土曜日
ヨーロッパで一番の親日国
ポーランド
ヨーロッパの中央に位置し、
ロシアとドイツという大国に挟まれたポーランドは、
隣接する大国に国土を分断され、
あるいは戦場となって蹂躙されてきた。
第二次世界大戦後は、
意に反して共産主義独裁国家ソ連の陣営に
否応なく組み込まれ、
約半世紀にわたり共産主義の弾圧に苦しんだ。
そんなポーランドは、
ヨーロッパ一随一の親日国家であることを
ご存じだろうか。
その理由の一つが、
第一次世界大戦(1914~1918年)末期の
「シベリア出兵」時のある出来事にある。
当時、ロシア革命に干渉すべく、
日本、米国、英国、フランスらの連合国が
シベリアに出兵した。
日本は、兵力7万3000人と戦費10億円を投じ、
約3000人もの戦死者を出した。
だがその結果として、
日本がシベリアで孤立した765人のポーランド人孤児を救うことができたのである。
ではなぜシベリアにポーランド人が?
19世紀、ロシア帝国の支配下にあったポーランドで
独立を勝ち取るための、民衆蜂起が始まった。
1830年の11月蜂起、
そして1863年の1月蜂起で
ポーランド人が立ち上がった。
だが、
圧倒的軍事力を誇るロシア軍に制圧され、
その結果多くのポーランド人が
政治犯としてシベリアに送られたのだった。
さらに
その後の第一次世界大戦では、
国土がロシア軍とドイツ軍の
激しい戦場となったため
逃れてきた人々が加わり、
当時シベリアには15万~20万人の
ポーランド人がいたという。
戦後、
ポーランドは独立を回復したが、
大戦末期に起こったロシア革命によって
祖国への帰国は困難となった。
シベリアのポーランド人は、
ロシア内戦の中で凄惨な生き地獄を味わわされ、
多数の餓死者や病死者、凍死者を出したのだった。
こうした惨状を知った
極東ウラジオストク在住のポーランド人、
アンナ・ビエルケビッチ女史らが
「ポーランド救済委員会」を1919年に立ち上げ、
「せめて親を失った孤児だけでも救わねば」
と東奔西走した。
当初は
米国の赤十字が動くはずだったが、
肝心の米軍が撤退となっては
どうしようもなかった。
そこで1920年6月、
ポーランド救済委員会は地理的にシベリアに近く、
また軍を派遣していた日本に救援を打診した。
すると
日本の外務省が
日本赤十字社に救済事業を要請し、
日本赤十字は、
陸軍大臣の田中義一と海軍大臣の加藤友三郎に
合意を得て救護活動を決定した。
早くもその2週間後、
ポーランド孤児らを乗せた輸送船が
ウラジオストクを出発し、
福井県・敦賀港に到着したのだった。
このとき、
日本赤十字をはじめ、軍や警察、役場、
敦賀市民は、孤児たちを温かく迎え入れた。
食事や菓子でもてなし、
病気の治療にあたるなど、
手厚く養護したのである。
こうして
1922年8月までに救出された
ポーランド孤児は765人を数えた。
ポーランド政府の要請で、
元気を取り戻した孤児たちは
横浜港や神戸港から祖国へ帰還していった。
ところが、
船で日本を離れるとき、
感動的な出来事がおきた。
ポーランド孤児たちは
「日本を離れたくない」と泣き出したのである。
シベリアで
極寒・極貧の生活を強いられてきた
孤児たちにとって、日本はまさに天国だったのだ。
孤児らは船上から「アリガトウ」を連呼し、
「君が代」とポーランド国歌を高らかに歌い
感謝の意を表して別れを惜しんだという。
祖国に送り届けられた孤児らは、
ポーランド北部のグダニスク郊外の町、
ヴェイヘロヴォの施設に収容されて養護された。
その場所は現在、特別支援学校となり、
当時孤児たちが過ごしたレンガ造りの建物が
そのままの姿で使用されている。
驚くべきは、
廊下に日の丸とポーランド国旗をあしらった
孤児救出のパネルが飾られ、
100年前の出来事が
今もしっかりと語り継がれていることだった。
こうして育った青年の中には
第二次世界大戦時にナチスに迫害されたユダヤ人を命がけで救う者もあらわれたのである。
そしてポーランド政府が
ポーランド孤児救援に対し、
日本に恩返しするときがやってきた。
平成7年と8年、
ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らを
ポーランドに招待し、
ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じて子供らを励ましたのだった。
これは
ポーランド科学アカデミーのスタニスワフ・フィリペック博士の尽力によるものだった。
当時、駐日ポーランド大使館の参事官だった
フィリペック博士は募金を呼び掛け、
その資金で阪神淡路大震災による日本人孤児や被災者を
ポーランドに招待したのである。
その動機についてフィリペック博士はこういう。
「私のおばあちゃんから、
日本に感謝すべきことがあるといわれてきましたから、何か役に立てないかと考えたのでした」
その後もポーランド政府は、
平成23年に発生した東日本大震災で
被災した岩手県と宮城県の子供たちを
2週間もポーランドに招くなど、
100年前のポーランド孤児救出劇への
恩返しは続いている。