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2021/06/02

倶利伽羅峠の戦い

6月2日
水曜日

倶利伽羅峠の戦い

1183年6月2日
(寿永2年5月11日)

治承・寿永の乱

倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い
(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、
または、砺波山の戦い
(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、
平安時代末期の
寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、
越中・加賀国の国境にある
砺波山の倶利伽羅峠
(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で
源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。

治承・寿永の乱における戦いの一つ。

治承4年(1180年)

以仁王の平家追討の令旨に応じて
信濃国で挙兵した源義仲は、
翌治承5年(1181年)に
平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、
その勢力を北陸道方面に大きく広げた。

寿永2年(1183年)4月

平家は平維盛を総大将とする
10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。

平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、
義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。

だが5月9日明け方、
加賀国より軍を進め般若野
(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、
木曾義仲軍の先遣隊である
義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて
戦況不利に陥り、
平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。

一旦後退した平家軍は、
能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、
加賀国と越中国の国境の砺波山に
平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の
二手に分かれて陣を敷いた。

5月11日、
義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、
義仲本隊は砺波山へ向かう。

義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして
平家軍の油断を誘い、
今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。

平家軍が寝静まった夜間に、
義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。

浮き足立った平家軍は退却しようとするが
退路は樋口兼光に押さえられていた。

大混乱に陥った平家軍7万余騎は
唯一敵が攻め寄せてこない方向へと
我先に逃れようとするが、
そこは倶利伽羅峠の断崖だった。

平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。

平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、
平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。

この戦いに大勝した
源義仲は京へ向けて進撃を開始し、
同年7月に遂に念願の上洛を果たす。

大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、
安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

倶利伽羅峠の戦い

2021/06/01

今川氏の滅亡(戦国大名としての)

6月1日
火曜日

今川氏の滅亡
(戦国大名としての)

1569年6月1日
(永禄12年5月17日)

今川氏真が
掛川城を開城して伊豆へと落ち延びる。

戦国大名としての今川氏の滅亡。

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての
武将、戦国大名、文化人。

今川氏12代当主。

父・今川義元が
桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、
その後、今川家の当主を継ぐが
武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、
戦国大名としての今川家は滅亡した。

その後は
同盟者でもあり妻の早川殿の実家である
後北条氏を頼り、
最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した
徳川家康と和議を結んで
臣従し庇護を受けることになった。

氏真以後の今川家の子孫は
徳川家に高家待遇で迎えられ、
江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した。

今川氏の滅亡(戦国大名としての)

2021/05/31

上米の制の停止

5月31日
月曜日

上米の制の停止

1730年5月31日
(享保15年4月15日)

江戸幕府が上米の制を停止し、
参勤交代の期間を元の1年おきに戻す。

上米の制(あげまいのせい)は、
江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が
享保の改革の際に出した制度。

上げ米の制と表記することもある。

享保7年(1722年)に制定された。

大名に
石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の
江戸在府期間を半年(従来は1年)とした。

幕府の増収に貢献したが、
問題点も多く享保15年(1730年)に廃止された。

そもそも上米の制は
「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」
と述べられるように、
幕府財政を各藩に依存するものであり、
幕府権威の低下は免れなかった。

また、
参勤交代の緩和策は江戸藩邸での経費削減につながり、
大名の経済力の拡大をもたらしうるものだった。

上米の制の停止