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2022/03/30

ソメイヨシノの起源

3月30日
水曜日

ソメイヨシノの起源

ソメイヨシノの起源を探るための
様々な遺伝子研究により、
ソメイヨシノはエドヒガンを母、
日本固有種のオオシマザクラ(最新の研究成果によると、正確には
オオシマザクラとヤマザクラの交雑種)を父とする栽培品種のクローンであることが証明されている
(#遺伝子解析の結果)。

ソメイヨシノは、
江戸時代後期の江戸の染井村の植木屋が、
ヤマザクラの名所として有名な
「吉野の桜」のブランド名を借りて
「吉野桜」として売り出して、
明治時代に日本全国に広まった。

当時の染井村は
大名屋敷の日本庭園を管理する
植木屋が集まる地区であり、
庭園に植えるための多くの栽培品種が生み出された
江戸の園芸の一大拠点であった。

このため、
最初のソメイヨシノは全国から集められた
エドヒガンとオオシマザクラが染井村で自然交雑、
もしくは人為的に交雑して誕生したか、
各地から採取されたサクラ中にあった
エドヒガンとオオシマザクラの雑種の1本で、
花付きの良さと成長の速さにより優良個体と見なされ、
植木家が接ぎ木、挿し木によって増やして
(つまりクローン)全国に広まったことが
定説となっている。

植樹の記録としては、
1873年(明治6年)に
福島県郡山市の開成山に、
1875年(明治8年)に
小石川植物園に、
1882年(明治15年)に
弘前城に植樹されたものが残っている。

「吉野の桜」として売り出された経緯から
ヤマザクラと混同されることもあったが、
1900年(明治33年)に
藤野寄命が日本園芸雑誌に
「染井吉野」の名前を発表し、
翌1901年に
松村任三が学名(Prunus yedonsis Matsum.)を発表し、
ソメイヨシノの存在が植物学的に分類された。

ソメイヨシノの起源

2022/03/29

マリモの日

3月29日
火曜日

マリモの日

1952年(昭和27年)3月29日

北海道阿寒湖の
マリモが
国の特別天然記念物に指定されたことから。

マリモ(毬藻、学名:Aegagropila linnaei)は、
球状集合体を作ることで知られている
淡水性の緑藻の一種である。

多くのマリモは
岩などに付着して生活しているが、
阿寒湖に生育するマリモは、
美しい球状体を作るため
日本の特別天然記念物に指定されている。

阿寒湖のマリモは
最大30cm程度と大きく
ビロード状の球状形態や希少性から
1952年(昭和27年)に
国の特別天然記念物に指定された。

近年各地で個体数が減少しており、
種として環境省のレッドリストで
絶滅危惧種で掲載されている。

阿寒湖のマリモは
直径30cm程度まで生長するが、
太陽光の届かない中心部は糸状体が枯れて
空洞になっているため、
大きさを支えきれずに壊れてしまう。

だがその後は小さいマリモとなり、
再び成長を続けていく。

3月29日は
阿寒湖のマリモが天然記念物に指定された日であり、
この日はマリモの日とされている。

また、
かつて日本領だった
樺太南部の頭場(トウバ)湖にも
マリモが生息しており、
天然記念物に指定されていた。

マリモの日

2022/03/28

三ツ矢サイダーの日

3月28日
月曜日

三ツ矢サイダーの日

「み(3)つ(2)や(8)」の語呂合わせ。

アサヒ飲料が制定。

三ツ矢サイダーは、
兵庫県川辺郡多田村字平野
(現在の川西市平野 多田銀山の一部)で
平野鉱泉が発見されたことにはじまる。

かつてこの地では
摂津三湯に数えられた名湯「平野の湯」と呼ばれる
炭酸泉の湯治場があったが、
江戸時代末期には廃れていた。

明治時代に入り、
外国人接待用の炭酸水を調達するために
宮内省の命を受けて
全国の水源を調査していた
イギリス人理学者ウィリアム・ガランによって
平野鉱泉が再発見され、
炭酸水の御料品工が建設された。

1884年に
三菱財閥が宮内庁から多田銀山の払い下げを受け、
三菱商会が「平野水」として炭酸水を販売。

1885年には明治屋が採取権を得て、
源満仲にまつわる当地の言い伝えから
「一本矢礦泉」に改名して販売。

1889年には
「三ツ矢平野水(みつやひらのすい)」の名称で
販売された。

しかし販売不振が続いたため、
1905年には
三ツ矢平野礦泉から販売された。

なお平野水は夏目漱石も愛飲しており
『行人』・『思い出す事など』にも登場、
また大正天皇の皇太子時代の
1897年には御料品としても採用された。

1907年に
帝国鉱泉株式会社
(旧 三ツ矢平野鉱泉合資会社)が設立され、
従来の平野水を元に、
砂糖を煮詰めた茶褐色のカラメルや
イギリスから輸入したサイダーフレーバを加えた
「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」を発売し、
1921年に
「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称されて販売された。

1921年に
加富登麦酒が帝国鉱泉株式会社と
日本製壜を吸収合併し
日本麦酒鑛泉株式会社となり、
1933年に
大日本麦酒株式会社と併合されたが、
「三ツ矢シャンペンサイダー」は
日本麦酒鑛泉のユニオンビールと共に
引き続き製造販売された。

太平洋戦争では
サイダーは軍需品だったため製造が続けられていたが、
末期には工場を軍需工場として貸し出されたり、
戦災で設備の一部を焼失するなどしていたため、
終戦の翌年の
1946年7月まで製造が中断されていた時期があった。

1946年7月から製造が再開されたが、
政府による砂糖の配給が行われていたため、
使用が解禁されたばかりの
人工甘味料ズルチンに切り替えて製造再開
(のちにズルチンの安全性に疑問が出たため、
自主的に使用中止)。

1951年には
砂糖の配給が終了したことから、
砂糖を使った
「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」も発売。

なお「シャンパン」の名称使用について、
フランスのシャンパン企業から
全国清涼飲料連合会に抗議が来たため、
1968年に「三ツ矢サイダー」に改名した。

三ツ矢サイダーの日