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2021/07/24

壬申の乱(じんしんのらん)

7月24日
土曜日

壬申の乱
(じんしんのらん)

672年7月24日
(天武天皇元年/弘文天皇元年6月24日)

大海人皇子(後の天武天皇)が
弘文天皇を討つ為に吉野を出発。

壬申の乱の始まり。

12月3日(672年1月7日)
近江宮の近隣山科において
天智天皇が46歳で崩御した。
(扶桑略記などでは四国の山中で崩御され
玉体は近江宮に戻されたとある。)

大友皇子が跡を継ぐが、
年齢はまだ24歳に過ぎなかった。

大海人皇子は
天武天皇元年6月24日(7月24日)に
吉野を出立した。

まず、名張に入り駅家を焼いたが、
名張郡司は出兵を拒否した。

大海人皇子は
美濃、伊勢、伊賀、熊野や
その他の豪族の信を得ることに成功した。

続いて伊賀に入り、
ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が
兵約500で参戦した。

そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で
長男の高市皇子の軍と合流した
(鈴鹿関で合流したとする説もある)。

さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、
美濃へ向かった。

美濃では大海人皇子の指示を受けて
多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。

これにより皇子は
東海道、東山道の諸国から兵を
動員することができるようになった。

美濃に入り、東国からの兵力を集めた
大海人皇子は7月2日(7月31日)に
軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は
東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる
使者を派遣したが、
東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、
吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。

特に筑紫では、
筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に
出兵を断ったのだが、
大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、
断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、
栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、
暗殺できなかった。

それでも近江朝廷は、
近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、
近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、
大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。

吹負はこのあと西と北から来襲する
近江朝の軍と激戦を繰り広げた。

この方面では近江朝の方が優勢で、
吹負の軍はたびたび敗走したが、
吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。

やがて紀阿閉麻呂が指揮する
美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、
指導部の足並みの乱れから前進が滞った。

大海人皇子方と近江方を区別するため
「金」という合言葉を用いた。

村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、
7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、
以後連戦連勝して箸墓での闘いでの勝利を経て
進撃を続けた。

7月22日(8月20日)に
瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で
近江朝廷軍が大敗すると、
翌7月23日(8月21日)に
大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。

美濃での戦いの前に、高市郡に進軍の際、
「高市社の事代主と身狭社に居る生霊神」が神懸り
「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言いそうすせれば大海人皇子を護ると神託をなした。

翌天武天皇2年(673年)2月
大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、
再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に
移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため、
新たな制度の構築、すなわち服制の改定、
八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。

天武天皇は
天智天皇よりもさらに中央集権制を
進めていったのである。

壬申の乱(じんしんのらん)

2021/07/23

文月ふみの日

7月23日
金曜日
東京オリンピック開会の日

文月ふみの日

1979年(昭和54年)から
郵政省(現 日本郵政グループ)は
毎月23日を「ふみ」の語呂合せで
「ふみの日」としているが、

7月の旧称が「文月」であることから、
特に7月の23日は
「文月ふみの日」として
さまざまなイベントを実施している。

ちょうど
暑中見舞の時期でもありますしね❗

文月ふみの日

2021/07/22

自転車屋の生き物歳時記 ゴマシジミ

7月22日
木曜日
海の日

自転車屋の生き物歳時記

ゴマシジミ

真夏になり
見かけるチョウの種類が
増えました。
小さく可愛いゴマシジミを見かけました。

驚いた事に
多くの地域で絶滅危惧種になってる‼️

貴重なチョウを見たんやな‼️

ゴマシジミ
(胡麻小灰蝶、学名 Maculinea teleius)は
チョウ目(鱗翅目)シジミチョウ科のチョウ。

裏面にゴマ状の小さな斑点がある。

地域によって変異が多い。

前翅長18-24mm。

湿原や草原に生息し、
成虫は年1回、7-9月にかけて現れる。

北海道では、
長い地下茎によって道路法面を補強するために
土手に植えられる
ナガボノシロワレモコウの広がりと共に
各地で分布を広げているが、
ワレモコウを食草にしている地域である
青森県から九州にかけての自然草原では、
極端に数を減らしている。

一方、
カライトソウを食草とするグループは
一般に「山ゴマ」と呼ばれており、
表面が黒化したものが目立つ。

こちらは山深いこともあり個体数は安定している。

一般に標高が高い地域は
黒いタイプのものが多く得られる。

三齢幼虫まではワレモコウの花を食べるが、
大きくなるとクシケアリによって巣に運ばれる。

巣に入った幼虫は、
体から出る甘い液体をアリに与える一方で、
アリの幼虫や蛹を食べて育つ。

成長した幼虫はアリの巣の中で越冬し、
翌年の7月中旬頃に成虫となる。

アリは成虫になると同時に襲いかかってくるため、
巣の出口や外で蛹になり、
成虫となった途端に巣から逃げるように飛ぶ。

北海道から九州にかけて分布するが、
本州以南では分布域が不連続。

四国にはいない。

現在分布が確認されている都道府県は

北海道、青森県、岩手県、群馬県、新潟県、
山梨県、長野県、静岡県、岐阜県、
富山県、石川県、福井県、鳥取県、島根県、
岡山県、広島県、大分県、熊本県、宮崎県である。

秋田県、山形県、福島県、神奈川県では
絶滅、愛知県でも2000年まで見られたものの、
現在は記録がないため県内絶滅と考えられる。

それにつながる岐阜県や長野県の南部でも
近年の記録はない。

国外ではユーラシア大陸北部。

自転車屋の生き物歳時記  ゴマシジミ