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2022/05/07

コナモンの日 お好み焼きの派生

5月7日
土曜日

コナモンの日

お好み焼きの派生

コナモンの日と言う事で
お好み焼きの派生について
概ね明らかになっている事を
少し調べてみました。

記録では
日本における粉物料理の起源は、
安土桃山時代の千利休が好んだという
「麩の焼き」にあるといわれているが
お好み焼きとはかけ離れたものであり、
お好み焼きの起源としては異論もある。

現在のお好み焼きに近いものとして、
関東地方においては、
明治に東京で定着したもんじゃ焼きが発生し、
そこから
昭和の初めに
東京を中心に流行した「どんどん焼き」が派生し、
屋台や縁日などで販売された。

近畿地方においては、
ソースが洋食的で一銭で買えることから
一銭洋食と呼ばれる水に溶いた小麦粉を
薄く焼いたものが発生した。

どんどん焼きが
一銭洋食になったと根拠なく断定する情報もあり、
またそれを鵜呑みに引用する情報もあるが、
逆のケースも十分に考えられ、
起源に関しては不明である。

こうした古いスタイルのお好み焼きの原型は、
現在も祭りの屋台などで提供されている他、
岸和田市のかしみん焼きや
高砂市のにくてん、
あるいは「ねぎ焼き」
「キャベツ焼き」といった形で残存している。

大正7年(1918年)3月24日の読売新聞朝刊に
「蝦フライ一銭のどんどん焼」と
題する記事が掲載されており、
記事内では「どんどん焼き」
という表現を用いながらも、
その屋台の暖簾や品書きには
「お好み焼」という表現が使用されている。

また柳田国男は、
昭和6年(1931年)に刊行された
「明治大正史 第四巻 世相篇」において
「子供を相手の擔ひ商ひの方でも
飴や新粉の細工物は通りこして、
御好み焼などといふ一品料理の眞似事が、
現に東京だけでも
数十人の専門家を生活させて居る」と書いている。

池田弥三郎の「私の食物誌」には
「昭和6〜7年(1931〜1932年)ごろに
銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、
風俗上の取り締まりで挙げられた」
というエピソードが記録されており、
当時のお好み焼き屋は
飲食を口実として
懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、
どちらかと言えばいかがわしい業態としても
機能していたことが読み取れる。

食文化史研究家の岡田哲は、
「お好み焼き」は当時の東京の花街において、
座敷にしつらえた鉄板で
客が自分の「好み」に焼く
風流な遊戯料理として誕生したという
この証言に基づいた解釈を紹介しており、
日本コナモン協会会長の熊谷真菜も
自著にて同じ説を採用している。

田辺聖子は藤本義一との対談の中で、
大阪でお好み焼きが知られるようになったのは
昭和16〜17年ぐらいから
ではなかったかと発言している。

現存するお好み焼き屋の中で
最古とされる店は、
浅草の「風流お好み焼 染太郎」で
昭和13年(12年という説もあり)の創業であるが、
大阪でも同じ時期に
「以登屋」(現在は閉店)が開店しており、
大阪で初めて客に自由に焼かせる
「お好み焼き」を紹介したとされる。

以登屋は芸者や花柳界の粋人、
船場の旦那衆などを対象とした高級店で、
市中の洋食焼きが10銭程度であった時代に
1円50銭もしたという。

ちなみに大衆店として
人気を博した染太郎では、
創業当時のお好み焼きの価格は一枚5銭であった。

戦後、「お好み焼き」という言葉は
客が自分で焼いて楽しむという原義を離れ、
ネギではなくキャベツを用いた
粉物料理そのものを指すようになる。

キャベツを用いる
混ぜ焼き式の「お好み焼き」は
近畿地方を中心に戦後急速に浸透し、
全国各地で洋食焼き・どんどん焼きから
お好み焼きへと料理の名称と調理法が更新されていった。

焼き方に関しては
現在も戦前のスタイルを残す地域が存在するものの、
名称の点では
ほぼ全国的に「お好み焼き」に統一されている。

お好み焼きは
戦後の大阪において、
具材やソースの追加、
腰掛け式のカウンターテーブルの採用などの変化を経て、本家と言われるほどに発展していく。

なお、
広島は戦前の東京で誕生した
お座敷料理のお好み焼きはもちろん、
戦後に広まった混ぜ焼き式のお好み焼きの
影響も受けなかった地域であるが、
どんどん焼きは乗せ焼きが主流であり、
どんどん焼きから一銭洋食として伝わり、
関西のお好み焼きも
広島のお好み焼きも源流は同じである。

戦災からの復興過程で
1950年ごろに発生した屋台街(後のお好み村)において、鉄板一枚で調理出来ることから、
戦前の一銭洋食をベースに独自の変化を遂げ、
後に広島風お好み焼きと呼ばれる料理に発展した。

個人的には
お店で提供される
お好み焼きの形態としては
最も古いのは
神戸の長田で
昭和8年から肉天屋を営業していたとされる
水原ではないかと思います。

神戸のにくてんが
お好み焼きと呼ばれるようになったのは戦後ですが
形態としてはお好み焼きなので
東京の染太郎の
風流お好み焼きより
古くから提供されている事になりますね

画像は
神戸のにくてんです😃

コナモンの日  お好み焼きの派生

2022/05/06

居酒屋 駅前 和田岬店

5月6日
金曜日

週末立ち飲み

大畠商店も木下酒店も
閉まっていました
今週はまだ
サラリーマンが見込めないからでしょうね
酒屋の立ち飲みには行けませんでした
立ち飲みではなく
座り飲みになりました😅

居酒屋 駅前

スーパードライ中瓶
ハイボール2杯

たたきキュウリ
タコの唐揚げ
イカわた焼きそば

居酒屋 駅前 和田岬店

2022/05/06

十七条憲法

5月6日
金曜日

十七条憲法

604年5月6日
(推古天皇12年4月3日)

聖徳太子が十七条憲法を制定。

十七条憲法 (十七条の憲法)
(じゅうしちじょう(の)けんぽう)とは、
推古天皇12年(ユリウス暦(西暦)604年)に
聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる、
17条からなる法文。

十七条憲法は、
憲法十七条、十七条の憲法
(じゅうしちじょうのいつくしきのり)とも言われる。

『日本書紀』、『先代旧事本紀』には、
推古天皇12年4月3日
(ユリウス暦604年5月6日)の条に
「十二年…夏四月丙寅朔 戊辰
皇太子親肇作憲法十七條」と記述されており、

『日本書紀』には全17条が記述されている。

この「皇太子」は、
「厩豐聰爾皇子」すなわち聖徳太子を指している。

憲法の名を冠してはいるが、
政府と国民の関係を規律する近代憲法とは異なり、
その内容は、
官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、
行政法としての性格が強い。

思想的には、儒教を中心とし、
仏教や法家の要素も織り交ぜられている。

また、
冒頭(第一条)と末尾(第十七条)で、
「独断の排除」と「議論の重要性」について、
繰り返し説かれているのも大きな特徴である。

そしてその「議論重視」の精神が、
五箇条の御誓文の第一条
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」にも
(ひいては近代日本の議会制民主政治にも)
受け継がれているのだとする意見が、
保守層に度々見られる。

和をもって貴しとなす❗

十七条憲法