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2021/08/06

広島原爆忌・広島平和記念日・原爆死没者慰霊式

8月6日
金曜日

広島原爆忌
広島平和記念日
原爆死没者慰霊式

1945年8月6日午前8時15分に、
米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」により、
原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下された。

これにより、
一瞬のうちに14万人が死亡し、
市街は壊滅した。

この歴史的悲劇から目をそむけないために、
犠牲者の霊を慰め、
世界平和を祈るために、
この日広島市では原爆慰霊祭が行われる。

広島原爆忌・広島平和記念日・原爆死没者慰霊式

2021/08/05

天明大噴火

8月5日
木曜日

天明大噴火

1783年8月5日
(天明3年7月6日)

浅間山が大噴火。
(天明大噴火)

天明の大飢饉の一因となる。

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは
江戸時代中期の1782年(天明2年)から
1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。

江戸四大飢饉の1つで、
日本の近世では最大の飢饉とされる。

この時の噴火が
天明の大飢饉の原因となり、
東北地方で約10万人の死者を出したと
長らく認識されていたが、
東北地方の気候不順による不作は
既に1770年代から起きていることから
直接的な原因とは言い切れない。

一方で同じ年には、
東北地方北部にある岩木山が噴火
(4月13日・天明3年3月12日)するばかりか、
アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の
巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火、6月8日)と
グリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の長期噴火が起き、
桁違いに大きい膨大な量の火山ガスは成層圏まで上昇。

噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、
地上に達する日射量を減少させたことから
北半球に低温化・冷害をもたらした。

このため既に深刻になっていた飢饉に
拍車をかけ事態を悪化させた面がある。

天明の大飢饉は
日本のみならず
地球規模の天災やったんやな‼️

天明大噴火

2021/08/04

秀吉の天下統一(小田原征伐完了)

8月4日
水曜日

秀吉の天下統一
(小田原征伐完了)

1590年8月4日
(天正18年7月5日)

北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。

小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。

相模国の戦国大名で小田原城主。

後北条氏の第5代当主である。

父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。

父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、
外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、
後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。

天正18年(1590年)から
秀吉による小田原征伐が始まった。

氏直はこれに対して
領国内に動員令をかけるとともに、
小田原城をはじめとする各支城を修築し、
さらに野戦の場合を想定して、
3月に箱根の屏風山等の陣場を巡検した。

しかし
山中城落城により結局小田原城で籠城することになる。

籠城は4月から3カ月に及んだが、
秀吉の大軍による
小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、
支城の陥落などに加え、
重臣・松田憲秀の庶子・笠原政晴が
秀吉に内応しようとした
(氏直が事前に政晴を成敗した)ことなどから、
7月1日には和議を結ぶことを決意し、
5日に秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ赴いて、
氏直自身が切腹することにより
将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。

しかしながら
秀吉は氏直の申出について感じ入り神妙とし、
家康の婿であったこともあり助命された。

他方、氏政・氏照及び
宿老の大道寺政繁・松田憲秀は切腹を命じられ、
11日に氏政・氏照が切腹。

12日に氏直は紀伊国高野山へ登ることに決まり、
21日に太田氏房・千葉直重・北条直定
・北条氏規・北条氏忠・北条氏隆・北条氏光等の一門 及び松田直秀・大道寺直繁・山角定勝・遠山直吉
・北条氏資(高橋種資)・山上久忠・梶原景宗
・内藤直行・宮城泰業等の家臣30余名を伴って
小田原を出立し、8月12日に高野山に到着した。

その後、高室院にて謹慎生活を送った。

以後「見性斎」と称す。

天正19年(1591年)1月から
氏直は赦免活動を開始し、
2月には秀吉から家康に赦免が通知される。

5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、
8月19日には秀吉と対面し正式に赦免と
河内及び関東において1万石を与えられ
豊臣大名として復活した。

さらに小田原に居住していた
督姫も27日に大坂に到着し、
家臣への知行宛行、
謹慎中の借財整理をおこなっていたが、
11月4日に大坂で病死した。

多聞院日記によると死因は疱瘡と記述されている。

享年30。

氏直の死後、
従弟で氏規の嫡子である
北条氏盛が氏直の名跡と遺領の内4000石を相続し、
慶長3年(1598年)に
氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、
北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続した。

秀吉の天下統一(小田原征伐完了)