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2021/09/03

千姫

9月3日
金曜日

千姫

1603年(慶長8年7月28日)

徳川家康の孫で
7歳の千姫が、
11歳の豊臣秀頼に輿入れ。

千姫(せんひめ)は、
安土桃山時代から江戸時代の女性。

豊臣秀頼・本多忠刻の正室。

父は徳川秀忠、母は継室の江。

号は天樹院。

慶長2年(1579年)4月11日

秀忠と江の長女として、
山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。

慶長8年(1603年)

7歳で秀頼と結婚し、
乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。

慶長20年(1615年) 

大坂夏の陣では、
祖父・徳川家康の命により
落城する大坂城から救出される。

その後、
秀頼と側室の間の娘・天秀尼が
処刑されそうになった時に、
千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける
(秀頼と淀殿に対する助命嘆願は聞き届けられなかった)。

元和2年(1616年)

桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚した。

この時、
津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って
千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、
直盛は家臣により殺害され、
それを直盛が自害したように見せかけたが、
坂崎家は改易処分となった(千姫事件)。

同年9月26日に桑名城に着いた。

この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。

翌元和3年(1617年)

本多家が播磨姫路に移封になった時には、
8月28日に桑名を発って姫路城に移り、
播磨姫君と呼ばれるようになる。

翌元和4年(1618年)には
長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、
元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。

しかし、
元和7年(1621年)に
幸千代が3歳で没したのを始め、
寛永3年(1626年)には
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が
次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。

江戸城に入り、出家して天樹院と号す。

出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。

寛永5年(1628年)に
勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、
一人暮らしとなる。

池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、
「天樹院書状」を送っている。

寛永9年(1632年) 

父・秀忠が薨去。

寛永16年(1639年) 

光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。

寛永20年(1643年)  

鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。

正保元年(1644年)には
弟・徳川家光の厄年を避けるために
江戸城から移った家光の側室・夏(後の順性院)と
その後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。

綱重を養子にすることで
大奥に対して大きな発言権を持つようになり、
4代将軍家綱の時代になっても
大奥の最高顧問的な権威をもっていた。

寛文5年(1655年)

越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、
嫁側である越後高田藩の勝姫
(千姫の妹、越後高田藩主・松平光長の母)に
依頼されて、幕府に対して介入を行った。

明暦3年(1657年)

明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、
叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。

寛文6年(1666年)2月6日

江戸で死去。

享年70。

千姫

2021/09/02

茨城不美人説

9月2日
木曜日

茨城不美人説

関ヶ原の戦いで
西軍よりの態度を取った
佐竹義宣が

徳川家康に
常陸国(茨城県)54万石から
出羽国(秋田県)20万石に
減転封(石高を減らされて領土を変えさせられる)
させられた事に腹を立てて

元来の女好きだった
佐竹義宣は
常陸国から美人と思われる女性を全部
出羽国に連れて行った事から
常陸国には美人がいなくなったとの事らしい

しかし
その後は
茨城には水戸徳川家もあったんやし
美人も集めてるやろ⁉️

白石美帆
磯山さやか
鈴木奈々とか

茨城県にも美人はいますよ😃

茨城不美人説

2021/09/02

ポツダム宣言受諾

9月2日
木曜日

ポツダム宣言受諾
(1945年(昭和20年)9月2日)

アメリカの戦艦ミズーリ号で
重光葵外務大臣が
ポツダム宣言に調印

日本が世界に敗戦を認めた日だ

国内では
天皇陛下の玉音放送があった
8月15日が
終戦とされているが

世界的な日本の敗戦は
ポツダム宣言に調印した
9月2日と認識されている

ポツダム宣言受諾