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2022/06/22

魚津城の戦い

6月22日
水曜日

魚津城の戦い

1582年6月21日
(天正10年6月3日)

魚津城にこもっていた
中条景泰らが切腹して魚津城を開城し、
戦いが終結。

柴田勝家ら
織田軍・北陸担当部門が北陸を制圧。

勝利に沸く織田勢であったが、

信長が
本能寺で明智光秀により討たれた
(本能寺の変)との報に接し、
主君の死に動揺した織田勢は四散した。

空城となった魚津城には
須田満親を中心とする上杉勢が入り、
越中東部における失地を奪還したが、

清洲会議で越中を安堵された
佐々成政に再び攻められ城を明け渡した。

上杉氏は織田氏に加賀能登越中を奪われ、
越後に押し込められた。

魚津城の戦い

2022/06/22

かにの日

6月22日
水曜日

かにの日

五十音順で「か」の文字が6番目、
「に」の文字が22番目に登場することに加え、
一般的な星座占いで
かに座がこの日に始まることにちなんだもの。

かに道楽を運営する
JRI株式会社かに道楽が
1990年(平成2年)に制定。

理屈は分かるけど
季節的には
カニのイメージがない😅

ワタリガニは
夏が旬やったか‼️

かにの日

2022/06/21

本能寺の変 四国陰謀説

6月21日
日曜日

本能寺の変

1582年6月21日
(天正10年6月2日)

明智光秀が
京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、
織田は自害。

本能寺の変については
実に様々な説があり歴史学者の間でも
意見は分かれるが
近年で最も有力な説は四国説になって来ていて
私も四国説だろうと思います。

四国陰謀説

信長の四国征伐を回避するために
光秀が謀反を起こしたとする説の総称。

単に四国説とも呼ばれる。

総称と述べたのは、
この説の扱いについては
必ずしも定まっていないからである。

当項では
四国征伐回避を主要因であり
大義名分であったとして分類したが、
副次的な要因と捉えることも可能で、
四国政策において面目を潰されたために
謀反を起したという怨恨説、
あるいは四国政策の失敗や
ライバル秀吉に負けたことに
不安を募らせたという不安説と考えたり、
または四国征伐を挫折させるために
長宗我部元親や斎藤利三が積極的に黒幕となって
謀反を起させたとすれば
黒幕説や共謀説と解することも可能なわけで、
まだまだ様々な解釈が存在するからである。

この説が俄かに注目を集めたのは、
平成26年(2014年)、
石谷家(いしがいけ)文書(林原美術館蔵)の中から
元親から利三に宛てた書状が発見されたからである。

共同研究を進めている
同館学芸課課長浅利尚民と
岡山県立博物館学芸課主幹内池英樹は、
この資料は本能寺の変直前の
斎藤利三と長宗我部元親の考えや行動を
明らかにするもので
「本能寺の変のきっかけとなった可能性のある書状」
と評価している。

内容は、
元親が土佐国・阿波2郡のみの領有と
上洛に応じる旨を記しており、
ここから四国攻めが実施されると
政治的に秀吉=三好笑岩ラインの完全勝利となり、
光秀は織田政権下はもちろん
長宗我部氏に対しても面目を失い、
いずれ
失脚することになると思った可能性があることから、
それで本能寺の変を起こしたとも
読み取れると論評された。

ただし、
この文書と四国説を結びつけるためには、
利三に届けられた元親の考えが信長の耳に入ったか、
入ったとすれば信長はそれにどう反応したか、
またこの知らせを光秀はどう受け止めたか、
などの可能性を慎重に検討する必要があり、
魅力的な文書ではあるものの、
四国説が正しいと言えるような
直接的な証拠足り得ない、とする意見もある。

従来より
四国政策変更の問題については、
高柳、桑田いずれも指摘してきたが、
藤田達生は三好康長は本能寺の変以前に
秀吉の甥の信吉(後の豊臣秀次)と養子縁組を結んで
秀吉と三好水軍を連携させたことによって
秀吉・光秀間に政治的対立が生じたこと、
光秀が
長宗我部氏からの軍事支援を期待して
本来であれば徳川家康が堺から帰洛後に行う筈であった
襲撃を繰り上げたとしている。

藤田は
「長年、長宗我部との取り次ぎにあたってきた光秀には、業績を全面否定される屈辱だったでしょう。
ライバルの秀吉にも追い落とされるとの思いで、
クーデターに及んだのではないでしょうか」と言った。

桐野作人は、
以前からさらに踏み込んだ
利三主導の四国説を唱えていたが、
石谷家文書について
「元親が譲歩したといっても、
織田信長は阿波を取り上げる方針を決めており、
とても報告できない内容だった。
こうなったら四国攻めに加担するか、
あるいは思い切って謀反に立ち上がるか。
決断に迫られたと思う」と述べている。

本能寺の変  四国陰謀説