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2022/06/28

タモリと呼ばれる魚

6月28日
火曜日

タモリと呼ばれる魚

皆さんは
タモリと呼ばれる魚がいるのを
ご存知だろうか?

スズキ目イサキ科ヒゲダイ属の
セトダイと言う魚

瀬戸内海で
しばしば網にかかる魚だが

鎧を着たような
勇ましい姿が
武士を連想させるので

源平合戦
壇之浦の戦いで

源義経と戦って敗れ海に散った
平知盛(たいらのとももり)の
生まれ変わりとして
トモモリと呼ばれていたのが

いつしか
呼びやすくタモリになった
と言う事らしいですわ。

仲間のイサキににて
塩焼きや煮付けで
美味な魚ですよ❗

タモリと呼ばれる魚

2022/06/28

ウチに来るお客さんから

6月28日
火曜日

ウチに来るお客さんから

大将
おっちゃん
アニキ
にいやん
お兄ちゃん

色々言われるけどね

ごくたまに
おやっさん❗と言われると

ワシャ
立花藤兵衛か❗と
突っ込みたくなるけど

立花藤兵衛が
通用せんわなと思う😅

ウチに来るお客さんから

2022/06/27

天明の大飢饉

6月27日
月曜日

天明の大飢饉

1787年6月27日
(天明7年5月12日 

天明の打ちこわし。

大坂の庶民が米屋を襲撃。

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは
江戸時代中期の
1782年(天明2年)から
1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。

江戸四大飢饉の1つで、
日本の近世では最大の飢饉とされる。

東北地方は
1770年代から悪天候や冷害により
農作物の収穫が激減しており、
すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。

こうした中、
天明3年3月12日
(1783年4月13日)には岩木山が、
7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、
各地に火山灰を降らせた。

火山の噴火は、
それによる直接的な被害にとどまらず、
日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、
農作物には壊滅的な被害が生じた。

このため、
翌年から深刻な飢饉状態となった。

天明2年(1782年)から3年にかけての冬には
異様に暖かい日が続いた。

道も田畑も乾き、
時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。

空は隅々まで青く晴れて、
冬とは思えない暖気が続き、
人々は不安げに空を見上げることが多くなった。

約30年前の宝暦年間
(1751年-1763年)の
4年、5年、13年の凶作があったときの天気と
酷似していた。

被害は東北地方の農村を中心に、
全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと
杉田玄白は『後見草』で伝えているが、
死んだ人間の肉を食い、
人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、
ある藩の記録には
「在町浦々、道路死人山のごとく、
目も当てられない風情にて」と記されている。

しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、
被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、
実数はそれ以上とみられる。

被害は特に陸奥でひどく、
弘前藩の例を取れば死者が
10数万人に達したとも伝えられており、
逃散した者も含めると
藩の人口の半数近くを失う状況になった。

飢餓とともに疫病も流行し、
全国的には1780年から86年の間に
92万人余りの人口減を招いたとされる。

農村部から逃げ出した農民は
各都市部へ流入し治安が悪化した。

それ以前の1786年には
異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり、
1787年(天明7年)5月には、
江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、
江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、
無法状態が3日間続いたという。

その後
全国各地へ打ちこわしが波及した。

これを受け、
7月に幕府は寛政の改革を始めた。

飢饉が起こるのは
異常気象だったからなので
異常気象ってのは
現代だけのもんではないって事ですよ。

天明の大飢饉