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2022/08/19

越前一向一揆

8月19日
金曜日

越前一向一揆

1574年8月19日
(天正2年8月3日)

越前と近江の国境、
木目峠を守護していた樋口直房が
一揆勢力と独断で講和し退陣。

越前国全域が一揆衆の勢力下になる。

越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。

天正2年(1574年)に越前国で発生した
富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった
土一揆との戦いと、
天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いがある。

この結果、
信長は越前を失陥することになった、
しかし、
当時織田氏は武田氏、長島一向一揆、
大坂の石山本願寺など
他の敵対勢力との抗争に忙殺されており、
すぐに失地回復のための
討伐軍を派兵することは不可能であった。

ところが、
七里頼周や新しい越前の領主として
石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、
越前の豪族や寺社勢力、
領民の期待に沿うような善政ではなかった。

下間らは自らの私利私欲を満たすため、
織田氏との臨戦体制下であるという大義名分のもと、
桂田長俊以上の重税や賦役を彼らに課した。

このため、
下間らの統治に不満を抱く層による
一揆内一揆が発生、一揆勢は内部から崩壊し始めた。

越前一向一揆

2022/08/18

カボチャ

8月18日
木曜日

カボチャ

1541年8月18日
(天文10年7月27日)

肥後国にポルトガル人が漂着。

領主の大友宗麟にカボチャの種が贈られる。

カボチャは
カンボジアから来たから
カボチャと聞いたが
ポルトガルから来たのか!!

カボチャ

2022/08/18

日本武尊(ヤマトタケル)

8月18日
木曜日

日本武尊(ヤマトタケル)

110年8月18日
(景行天皇40年7月16日)

景行天皇が日本武尊に東夷討伐を命じる。

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、
記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。

『日本書紀』では主に
「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、
『古事記』では主に
「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。

現在では、
漢字表記の場合に一般には
「日本武尊」の用字が通用される。

第12代景行天皇皇子で、
第14代仲哀天皇の父にあたる。

熊襲征討・東国征討を行ったとされる
日本古代史上の伝説的英雄である。

『古事記』では、
倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が
景行天皇の妃となって
大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、
このことから景行天皇とヤマトタケルの
親子関係に否定的な説がある。

また、
各地へ征討に出る雄略天皇などと
似た事績があることから、
4世紀から7世紀ごろの
数人のヤマトの英雄を統合した
架空の人物という説もある。

日本武尊(ヤマトタケル)